2026年の合同祭・神社系イベント

奥千葉御朱印めぐり
7月30日〜8月30日

岩井のまつり
8月21日、22日

鴨川地区合同祭
9月12日、13日

上総十二社祭り
9月10日、13日

大原はだか祭り
9月?日

安房やわたんまち
9月19日、20日

館山のまつり
10月17日、18日
千葉県における景行天皇の事績

ここに宮が置かれ景行天皇が滞在したという

上総国の鹿野山・鬼泪山で「悪路王」を打ち取った「日本武尊」の逸話はよく知られていますが、その父親である第十二代「景行天皇」も千葉県を訪れたと伝わっていることをご存じでしょうか?
『日本書紀』や「高家神社」の由緒に関連して、天皇が安房勝山でハマグリの膾を食べ、大変喜ばれた話を読んだことがある方もいるでしょう。一方、天皇の千葉県内におけるそれ以外の事績を調べてみると、かなりの数が残されていることがわかりました。
本稿では、天皇が上総国巡行に至るまでの経緯と、天皇が実際に訪れたと伝わる場所を列挙しまとめました。
⓪ 時代背景 ― 縄文~弥生期の過渡期


「景行天皇」の時代については、具体的な西暦年代は明らかでなく、1~4世紀までとかなり幅広い説があります。
時代区分的にはおおむね弥生時代(~古墳時代)に相当すると考えられます。西日本では、水稲耕作や麻づくり等を基盤とする生活が発達し、天皇と中心とする、後のヤマト王権につながる政治的なまとまりが形成されていたようです。
一方、東国では、「物の所有」「土地の境界」「人間の上下」という概念がなく、山野を走り回り狩猟採集を行う縄文的な暮らしをする人々がたくさんいたようです。
『日本書紀』では、「武内宿禰」が東国の「日高見国」の人々について、「景行天皇」が東夷の人々について、その様子を次のようにかなり詳細に語っています。
東国の田舎にある「日高見国」の人々の特徴
- 男も女も、椎結という髪型で、身体には入れ墨をし、勇敢である
東夷の特徴
- 狂暴な性格で、凌辱にも恥じない
- 村に長がいない
- 境界を犯し争う
- 山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている
蝦夷(東夷の一部族)の特徴
- 東夷のなかの蝦夷は特に手強い
- 男女親子の区別がない
- 冬は穴に寝、夏は木に住む
- 毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合う
- 飛ぶ鳥のように山に登り、獣のように草原を走る
- 恩は忘れるが怨みには必ず報いる
- 束ねた髪のなかに矢を隠し、刀を衣のなかに帯びている
- 仲間を集めて辺境を犯し、稔りの時をねらって作物をかすめ取る
- 攻めれば草に隠れ、追えば山に入る
- 一度も王に従ったことがない
① 景行天皇の東国平定まで
- 景行二年、双子の息子が生まれる。弟の方が「日本武尊」である
- 景行三年、息子「武内宿禰」が生まれる。
- 景行二十五年、「武内宿禰」に北陸と東方の偵察を命じる
- 景行二十七年春、帰還した「武内宿禰」が、「東国の日高見国の土地は越えていて広大、侵略すると良いでしょう」と報告
- 景行二十七年冬、若干十六歳の「日本武尊」に熊襲討伐がくだる。翌年、「日本武尊」は熊襲を平定したことを天皇に報告
- 景行四十年夏、東国の蝦夷が背き、辺境が動揺する
② 日本武尊の東国平定
- 景行四十年冬、「日本武尊」が東征に出発
- 「伊勢神宮」にいる叔母「倭媛命」に別れの言葉を述べ、草薙剣を授かる。
- 相模から上総へ船で渡る道中、暴風雨に遭う。「弟橘媛(おとたちばなひめ)」と数人の采女が身代わりに海に入ると、船団は無事上総に上陸した。
- 鹿野山・鬼泪山の悪路王を討伐し、陸奥国へ向かった
- 蘇我比咩様が千葉市中央区蘇我町近隣に漂着した
- 常陸国の蝦夷を平らげるも、帰路、鈴鹿の能褒野(三重県亀山市能褒野町)で亡くなる。
③ 千葉県内に残る景行天皇の伝承
上総国の浮島での行動

ここに宮が置かれ景行天皇が滞在したという

『日本書紀』に、「景行天皇」の次の事績が伝わります。
- 五十三年秋八月一日、「愛した子を思い偲ぶことを止めることはできない。「日本武尊」の平定した国々を巡幸したいと思う」といい、同月東国へ向け出発。
- 同年冬十月、上総国に行き、海路で安房水門(あわのみなと)に来た。
- カクカクと鳴く姿を見せない覚賀鳥(かくかのとり)を見るため、海中まで出かけた。
- そこで得られた大きな蛤を、膳臣の先祖の「磐鹿六雁(いわかむつかり)」が膾(なます)にして献上すると、その功を褒めて、膳大伴部(かしわでのおおともべ)の役を賜わった。
- 同年十二月、東国から帰り伊勢に住んだ。

『日本書紀』の記述では、天皇が上総国のどこに滞在したのかは書かれていません。「安房水門」なる場所がどこにあたるかは諸説あるようです。
上記に追加する形で、『高橋氏文』『高橋氏文考注』では次のような内容が記されています。
- 天皇一行は、上総国安房の浮島宮に滞在した。
- 天皇は、葛飾野に御狩にでかけた。
- カクカクと鳴く鳥を所望したのは大后。
- この鳥の捕獲に失敗した「磐鹿六獦命」は、堅魚と蛤を得て帰った。
- 「磐鹿六獦命」は、無邪志国造(むさしのくにのみやつこ)の上祖「大多毛比(おほたもひ)」、知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の上祖「天上腹(あめのうははら)、「天下腹(あまのしたはら)」等とともに、膾などの料理を作った
- 天皇は、「磐鹿六雁命」を大伴部の長にするとともに、安房国・上総国・若狭国の長に定めた。



『高橋氏文』では、天皇の滞在地が安房の浮島宮であると記されている。
「天皇が上総に来る!?」というので、武蔵や秩父の国造も慌てて上総に来たのでしょうか? 天皇への点数稼ぎのために、海なし県の国造が海鮮を使った、普段しないであろう手料理をするさまを想像すると面白いですね。
下総国での行動
| 地名、神社名 | 景行天皇の行動 | 参考 |
|---|---|---|
| 葛飾野 | 浮島に逗留の際、当地で狩りを行った。 その際、印西市山田の「宗像神社」に寄った可能性がある(後述)。 | 『高橋氏文』 『高橋氏文考注』 『千葉県神社名鑑』 |
| 印波鳥見丘 (印西市) | 当地で休憩し、常陸国の香澄里を眺め「丹霞空蒙云々…」と詠んだ。これが香澄里(潮来市周辺か)や霞ヶ浦の名称の由来であるという説がある。…a 印波鳥見丘の場所は、印西市の次の社の近隣に比定されている。 小林鳥見神社(b)、萩原鳥見神社(c)・平岡鳥見神社(f)・大森鳥見神社(d)・中根鳥見神社(e)・笠神鳥見神社(e) | a.『常陸国風土記』 b.『下総国旧事考』 c.『利根川図志』 d.佐野太郎 e.『日本歴史地名体系』 f. 邨岡良弼 |
| 八尾岡(香取郡東庄町宮本周辺)、 東大社 | 当地(旧名 八尾(やつお)岡)に滞在した。のち東海鎮護のために「春日命」なる人物に「東大社」(「八尾神社」)を創建させた。…a 当地に一社を営み「玉依姫命」を祀られたと伝わる。上記と同一か?…b | a. 『日本の神々』 b. 『千葉県神社名鑑』 |
| 宗像神社 (印西市山田) | 倭武命が当地に筑紫の「宗像神社」を祀る仮宮を奉斎。 景行天皇が葛飾野御狩の際に当社を「宗像宮」と号した。 | 『千葉県神社名鑑』 |
| 入日神社 (船橋市海神) | 長雨のため「入日神社」の船橋を架け祠を高丘に遷した。これが「意富比神社」であるという。 | 『千葉県誌 巻上 (県別郷土歴史叢書)』 |
| 意富比神社(船橋大神宮) (船橋市宮本) | 日本武尊の事績を追慕し、「意富比神社」の社号を与えた 。 | 『千葉県神社名鑑』 |
上総国での行動
| 地名、神社名 | 景行天皇の行動 | 参考 |
|---|---|---|
| 浮島 (安房郡鋸南町勝山) | 上述の通り | 『日本書紀』『高橋氏文』『高橋氏文考注』 |
| 姉埼神社 (市原市姉崎) | 当社の相殿に「日本武尊」を祀った。 | 『千葉県神社名鑑』 |
| 島穴神社 (市原市島野) | 当社に「日本武尊」「倭比売尊」を合祀した。 | 『千葉県神社名鑑』 |
| 君津郡飯野村または上飯野の雲宮(籠り宮) (富津市上飯野) | 「日本武尊」が上陸したのが当地・雲宮の入り江。のちに「景行天王」も当地に行幸。 かつて天皇が行幸した「宮の跡」、日本武尊の神霊を祀る「日の杜の御やしろ」があったというが詳細不明。 | 『富津市史 史料集 2』 『広報ふっつNo. 505』 |
| 八雲神社 (富津市岩坂74) | この地に「素戔嗚神」の宮を造り、「磐鹿六獦命」に祭らせ天羽郡総鎮守と称した。その後「六獦命」の子孫が代々奉仕。…a 紀州三熊野を当地に遷座、これがいわゆる神宿・望井・紀村である。「日本武尊」が「八雲神社」を勧請し、「景行天皇」が磐坂山に宮柱太敷立て「八雲大神宮」と称した。…b | a.『千葉県神社名鑑』 b.『富津市史 史料集 2』P251 |
| 血草の浜(千種の浜) (富津市千草新田) | 「日本武尊」の一部始終を聞き、草の色が変わるほど血の御涙を雨のように流した | 『富津市史 史料集 2』P245 |
| 熊野神社 (富津市更和) | 木の国の熊野神を祀った。当地の旧称は木村(紀村)。 | 『千葉県神社名鑑』 |
| 神明神社 (富津市湊) | 皇后八坂入姫命が長浜浦で遊んだ際、伊勢の大神を拝んだ旧跡と伝わる。 | 『千葉県神社名鑑』 『富津市史 史料集 2』P251 |
| 天神山里 | 天津神を遥拝した。そこで当地を天神山という。 | 『富津市史 史料集 2』 |
| 天神社 (富津市海良) | 当郷で天津神に大嘗を奉った古跡という | 『富津市史 史料集 2』P981 |
| 天王原 (富津市数馬、富津市数馬字横手) | 天王山の裾が横手で、その向かいを天王原という。景行天皇が訪れた場所で、天王陣列の旧跡で塚がある(数馬村西光寺利兵衛の田地に間にある)。 | 『富津市史 史料集 2』 |
| 武内神祠(武内神社か?) (富津市岩坂) | 岩坂の大和田谷にある。「景行天皇」に随従した「武内宿禰」の陣列の旧跡という | 『富津市史 史料集 2』P396 |
| 玉前神社 (長生郡一宮町) | 上総巡行の際、当地に親祭遊ばされた。 | 『千葉県神社名鑑』 |
安房国での行動
| 地名、神社名 | 景行天皇の行動 | 参考 |
|---|---|---|
| 山荻神社 (館山市山荻) | 諸国巡幸の際、当地で五穀豊穣を占った。 | 館山市HP【市指定無形民俗文化財】山荻神社の筒粥神事 |
④ 茨城県内に残る景行天皇の伝承
| 地名、神社名 | 内容 | 参考 |
|---|---|---|
| 甕山(鹿嶋市) | もともと豊前にあった大甕が、「神武天皇」が大和に移し、「景行天皇」が鹿島に移した | 『鹿島神宮』 |
| 行方郡の香澄里 (潮来市周辺か) | 下総の印波鳥見丘で、香澄里の景色の歌を詠んだ。印波鳥見丘の項を参照のこと | 『常陸国風土記』 |
| 常陸国の河内郡の浮嶋村 (稲敷市浮島か)、景行天皇行在所跡 (稲敷市浮島) | 浮嶋村に行幸し、仮宮を建て逗留した際、覺賀鳥の鳴き声が聞こえた。そこで伊賀理命にこれを捕えさせ、褒美として鳥取の姓を与えた。 | 『常陸国風土記』 『風土記逸文』 |
| 信太郡の雄栗之村の碓井 | 浮島の帳宮に居た時に、飲水が無くて困った。そこで卜部に占わせて井戸を掘らせた。その碓井は今も雄栗之村にある。…a 美浦村土浦の美浦村陸平貝塚公園内の「ぶくぶく水(ぶくぶくすい)」がそれであるという…b | a. 『常陸国風土記』 b. ぶくぶく水(ぶくぶくすい)|常陸国風土記を訪ねる |
景行天皇巡行地をマッピング
「景行天皇」が直接巡行したと考えられる場所を、地図にプロットしたところ、興味深い傾向がいくつか見られた。
海の沿岸部に伝承が多い
内房・外房・香取海の沿岸に伝承が多いという傾向が見えます。
天皇一行は、房総上陸後も、陸路より海路で移動したように思われます。
富津市の沿岸低地部に多い
東京湾の沿岸部、「大貫」駅と「上総湊」駅周辺の低地に、多くの伝承が残されています。
「景行天皇」や后、「武内宿禰」が創建に関与した神社が複数鎮座しています。一方、天皇等を祀る神社は現状見られません。
式内社が多い
天皇が訪れたと伝わる5つの神社のうち、次の4社は式内社です。
- 意富比神社(船橋大神宮)
- 姉埼神社
- 島穴神社
- 玉前神社
「景行天皇」来訪伝承のある神社には、式内社が多いという特徴が見えてきます。
式内社に着目すると、忌部系の式内社や、「香取神宮」およびその関連社「老尾神社」には、天皇巡行の伝承は伝わっていません。「麻賀多神社」は、第十五代「応神天皇」の時代の創建と伝わるので、当然天皇の事績の伝承はありません。
景行天皇を祀る神社
千葉県内には、「日本武尊」の来訪を起源とする神社がいくつもあります。それならば、日本国で最も高い地位にある天皇が来訪したのですから、「景行天皇」を祀る神社もさぞ多いだろうと思われます。
ところが、千葉県と茨城県で「景行天皇」を祭神とする神社を調べたところ、現時点で確認できたのは、安房勝山の「浮島神社」と「加知山神社」だけでした。しかも、「浮島神社」の依代は「加知山神社」に合祀されたので、千葉県と茨城県で「景行天皇」を祀る神社は、実質一社のみのようです。
| 地名、神社名 | 内容 | 参考 |
|---|---|---|
| 浮島神社 | 浮島に鎮座。依代は「加知山神社」に合祀された | 安房郡鋸南町勝山浮島 |
| 加知山神社(かちやまじんじゃ) | 勝山漁港に鎮座。祭神に「景行天皇」が合祀された | 安房郡鋸南町勝山319 |
なぜ房総の人々は「景行天皇」を祀らなかったのでしょうか? 一つには、「日本武尊」と異なり、「景行天皇」は房総の内陸部を深く巡らなかった可能性が考えられます。
ただし、下総での事績をつなぐと、天皇が御狩に出掛けた際、葛飾野から印旛沼北岸(鳥見丘と山田の「宗像神社」)に移動したような雰囲気があります。これは、なかなかに長い移動経路ですが、その道筋に天皇を祀る神社は現状見当たらないのが、不思議なことに思えます。
参考
下記を参考にさせていただきました。
抜粋
─
P九六一
1『雲宮行在遺蹟記念碑』
2上飯野 雲宮
3昭和三年(一九ニ八)
4高さ一七〇cm 幅七五cm
5(表)
今を去ること一千八百有余年前の昔東の夷を征定せんとの勅命を帯ひ奉りて皇子日」本武尊には大和の国纒向日代(まきむくひしろ)の宮をいてまし伊勢の大廟をおろかみ途に尾張駿河を経きりて相模国の走り水のみなと旗山の岬よりこの国の海を御渡らひあそはされしとき海の上」俄かに颶風吹きおこりて波浪いと荒れ狂ひ皇子の王船漂ひてまさに覆らんとするさまなる」に尊の妃弟橘媛には己が身を殉てて綿津海の神に祈られけれはやかて波浪静まりて尊等の」軍旅を安からしめ給へりしにとはその貞烈のほど萬代に赫きわたり日の本の婦の鑑として」史上にもいと明けきことともならめ この時尊等にはやうやくにしてこの地現今の上総」の国君津郡飯野村雲宮の入江に王船をよせてかはかりの難を避くることを得て玆に初めて」陸地にのほられける かくてかりのとはりの雲の宮に御止まりあらせられ暫く喪に籠ら」ひて七つ日七つ夜の間物忌みあそはされたりけるとなむ古より里俗云ひ伝ひはへるそ」ののち尊には此の国より常陸の国にいてましみちの奥のまつろはぬえみしともを打ち平ら」けておほきいさをしを押立てて征旅かへりの途すから神風の伊勢にてみまかられたりける」をちちのみかどいとと愛惜の情やみかたくておん身親から皇子の定め玉ひける国々を見めくりてやかてこの地のかむつふさの国雲の宮といふにも尊のあとしぬひまゐらせて御行幸」のことあそはされたりけるこそいとかしこしともかしこききはみなれあはれ開けゆく今を仰くにつけてもそのかみみかと」の御行幸ましましし宮の跡のほろひゆきなむことを惜しみて村人たちのことよさすかままにおのれさきつ年の秋のころこの地の聖跡にあそひ尊」の神霊をいつきまつれる日の杜の御やしろを伏しおろかみ待りしゆかりにてまわらぬ筆をは」しり水の海路はるかに立ちかへる年の瀬波のいや久しく故きを温ぬるよすかにもと斯く誌」し置くは大正十とせあまり一年一月美風山人吉田文俊なり
牧野治三郎書
大野関次穀
(裏)(後略)
<本文の現代語訳>
今から千八百年以上も昔のこと、東国の人々を平定せよとの天皇の命令を受けた皇子・日本武尊は、大和国の纒向日代宮を出発しました。伊勢の大神宮を拝み、尾張・駿河を経て相模国の走水の港へ至り、旗山の岬からこの国の海を渡ろうとされました。
そのとき、海上では突然激しい風が吹き起こり、波が荒れ狂いました。皇子の乗る船は波に漂い、今にも転覆しそうになりました。そこで日本武尊の妃・弟橘媛は、自らの身を犠牲にして海の神に祈りました。すると、やがて波は静まり、日本武尊たちの軍の旅は無事に進められるようになりました。この弟橘媛の貞節と烈しい決意は、後世まで広く語り継がれ、日本女性の鑑として歴史にも明らかに伝えられています。
このとき日本武尊たちは、ようやく現在の上総国君津郡飯野村にあたる雲宮の入江へ船を寄せ、この大難を逃れることができました。そして、ここで初めて陸地へ上がったといいます。
その後、日本武尊は仮の御所である雲宮に滞在し、しばらく喪に籠り、七日七夜にわたり物忌みをされたと、古くから土地の人々に語り伝えられています。
その後、日本武尊はこの国から常陸国へ向かい、さらに陸奥の服従しない蝦夷たちを討ち平らげ、大きな功績を挙げました。しかし征討からの帰途、伊勢で亡くなられました。
父である天皇は、日本武尊を失った悲しみをどうしても抑えることができず、自ら皇子が平定した国々を巡られました。そして、この上総国の雲宮にも日本武尊の足跡を偲んで行幸されたと伝えられています。まことに畏れ多いことです。
時代が進み、世の中が開けてゆく今日にあっても、かつて天皇が行幸された宮の跡が滅びてしまうことを惜しく思います。そこで村人たちから依頼されたままに、私は先年の秋、この聖跡を訪れ、日本武尊の神霊を祀る「日の杜」の社を伏し拝みました。その縁によって、拙い筆ながら、走水の海路をはるかに振り返り、長く後世に伝わり、昔を知る手掛かりともなるよう、このように書き記しておきます。
Webサイト
- ─
書籍
- 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
- 『日本書紀(上)全現代語訳』宇治谷 孟 訳 1988年
- 『古語拾遺・高橋氏文 』安田 尚道、秋本 吉徳 編注 2010年
- 『日本の神々 神社と聖地 11 関東』谷川 健一 編 1984年
- 『鹿島神宮』東 実 著
- 『富津市史 史料集 2』富津市史編さん委員会 編 1980年
関連コンテンツ
-
コラム・豆知識


千葉県における景行天皇の事績 ― 東国巡幸の足跡をたどる
-
コラム・豆知識


2026年の合同祭・神社系イベント
-
匝瑳市の神社


椿海三社(椿湖三社、新田三社)│匝瑳市、旭市
-
千葉市中央区の神社


【廃社】鷲宮(鷲神社)/【消滅】鷲塚古墳│千葉市中央区
-
千葉市中央区の神社


「生実」と村田川下流域の麻織物づくりと「忌部氏」
-
千葉市中央区の神社


【廃社】大鳥神社/【消滅】七廻塚古墳│千葉市中央区南生実町
-
千葉市中央区の神社


八剣神社 吉野氏の伝承│千葉市中央区南生実町
-
コラム・豆知識


千葉県(房総半島)で最東端/最西端/最南端の神社
-
佐倉市の神社


佐倉市にもこのような神社があった!│2025年佐倉市民カレッジの研究発表
-
コラム・豆知識


【随時更新】2026年の博物館等のイベント
-
コラム・豆知識


陸地の「フネの社」は日本最古級か?――加曽利から考える
-
コラム・豆知識


2025年の人気ランキング
-
コラム・豆知識


莫越山神社記・社伝記│南房総市宮下・沓見
-
コラム・豆知識


「織幡」「旗鉾」から「香取」がはじまったのか?│香取市織幡
-
コラム・豆知識


「小櫃川」を開拓した「忌部氏」~「小櫃川忌部」による弥生化~
-
千葉市中央区の神社


「千葉神社」は「高房神社」だったか?│千葉市中央区院内
-
コラム・豆知識


洲宮神社縁起(洲宮神社伝記)
-
コラム・豆知識

横長03-1024x719.jpg)
古代日本(旧石器時代・縄文時代・弥生時代)の人口分布









