側高神社(そばたかじんじゃ)│香取市大倉

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香取市大倉の側高神社(そばたかじんじゃ)の概要

側高神社は「香取神宮」第一の摂社で、同宮同様紀元前643年(神武一八年)の創建、香取市大倉の台地の上に鎮座する神社です。明治期から終戦期まで郷社に列格していました。祭神は古来より「神秘」「言わず語らずの神」として語ることが禁止されています。

『旧記』には、香取神宮で祭祀を行う際は、側高神社に起請(きしょう)する必要があると書かれています。起請は、ある事柄を為す際、「上位者」に許可をもらう事を意味します。香取神宮よりも、側高神社の方が「上位」ということでしょうか。

祭神が秘密というのは他に見たことがありません。香取神宮との関連性も含めて、筆者が個人的に最も興味を持っている神社のひとつです。

創建・由緒

「香取神宮」第一の摂社で、創建は神宮同様、紀元前643年(神武一八年)。明治期から終戦期まで郷社。現在の公式社名は「側高神社」ですが、「脇鷹社」(そばたかしゃ?)としていた時期もあるそうです。

祭神については古来より「神秘」「言わず語らずの神」として口に出すことが許されていません。『千葉県神社名鑑』では「側高大神」(そばたかのおおかみ)として濁しています。

一方、特定の祭神を示す資料もあります。どうしても気になる方は下記をクリックしてみてください。

側高神社の祭神についてはこちら ↓

『千葉県香取郡誌』側高神社

高皇産霊尊、神皇産霊尊を合祀、天日鷲命、経津主命、天児屋根命、武甕槌命、姫御神を配祀する
或いは天日鷲命、伊弉諾尊、天照大神、神功皇后を祀る

千葉県HP 側高神社本殿(→ リンク

天日鷲命、木花開耶姫命、武雷命、経津主命の4柱の神を合祀する
の4柱の神を合祀する

香取市HP 2-5.側高神社のひげなで祭に見る歴史的風致(→ リンク

祭神は神秘あるいは側高大神とするが、天日鷲命あるいは武甕槌神、経津主神、天児屋根命、姫神を祀ったとも言われている。
落書神社(祭神経津主命・武甕槌命)と一夜山神社(祭神木花咲耶姫命)を合祀

入り口右手の由緒書き
入り口右手の由緒書き

千葉県指定有形文化財
側高神社本殿(そばたかじんじゃほんでん)一棟
昭和五十七年四月六日指定

側高神社は、香取神宮の第一摂社で、古来より御祭神は深秘とされ明らかにされていない香取神宮の式年遷宮とともに造営が行われてきたと考えられる。

本殿は寛文五年(1665)の建立で、一間社流造、屋根は現在銅板革であるが、もとは柿葦。正面を方立柱に小脇羽目付の板扉両開きにし、側面・背面は羽目板とする。正面及び側面は切目縁、跳高欄。組物は連三斗、軒は二重繁垂木である。向拝部分の彩色文様や基股内部の彫刻には中世後期の特色がみられる。特に向拝部は見世棚造の前面に浜縁と木階を組み合わせた構造で、当地域では他に類例が無い建築物として貴重である。

昭和六十・六十一年に保存修理工事を実施し、建立当初の状態に復原し、屋根の葺き替えや再塗装を行った。その際に発見された墨書と棟札から建立年代が判明したほか、慶長年間の部材を一部転用していることも明らかになった。

今和三年十一月十一日
千葉県教育委員会
香取市教育委員会

『千葉県神社名鑑』抜粋

側高紳祉(通称 側高様) 旧郷社

祭神
側高大神(そばたかのおおかみ)

由緒沿革
香取神宮摂社。社伝に、神武一八年の創建という。古来、祭神は神秘としてロにすることを許されず、俗に言わず語らずの神とのみ伝う。香取神宮の古い差定に「以側高天神為大行事可令糺定」とあり、また旧記にも「起請することあれば必ず此の神に質す」と見えるなど信仰の歴史が偲ばれる。境内には老杉が生い茂り、裏山よりは、筑波山、利根川、鹿島の森を一望に見はるかし風光絶佳である。社殿は慶長年間に改築されたもので、桃山時代の建築様式は県の有形文化財になっている。.

神事と芸能
俗に「ひげ撫で祭」という酒を飲み競べる神事がある。氏子一八組が毎年交互に奉仕する質朴勇壮なるもので、起原は鎌倉時代である。

筆者の考え:側高神社の由来

側高神社および香取神宮の創建または発揚に関し、祭神を絡めた筆者の考えを下記に示します。「言わず語らずの神」に関する事項もあるため、興味のある方のみご覧ください。

詳しくはこちら ↓

香取神宮と側高神社の祭神をまとめると以下のようになります。

神社名祭神
香取神宮経津主命(フツヌシノミコト)
側高神社(別名 脇鷹神社)天日鷲命
→ 由布津主命(ユフツヌシノミコト)の祖父(祖神)

仮説1:「フツヌシ」は「忌部」の神様か?

  • 香取神宮(祭神:経津主命)は祭事の際に側高神社(祭神:天日鷲命)へ起請(きしょう。上位者へのお伺い)するが、なぜ、経津主命が天日鷲命に起請を行うのだろうか?
    ここで、天日鷲命の孫に、由布津主命(ユフツヌシノミコト)という神様がいる。
    名前のよく似たフツヌシとユフツヌシが同一または縁者と仮定すると、香取神宮と側高神社は、孫と祖父の関係となり、孫が祖父に起請するのは自然に思える。
香取神宮の祭神

孫:経津主命≒由布津主

起請
(上位者へのお伺い)

側高神社の祭神

祖父:天日鷲命

  • 「鷲」と「鷹」が同じすると、「側高神社」の旧字「脇鷹神社」は、香取神宮の「そば」に寄り添う「鷹=鷲=天日鷲命」と繋がる。実際、側高神社の祭神は天日鷲命である。

仮説2:「フツヌシ」は本来、「斎事」(いわいごと)の神様だったか?

  • 日本書紀に、フツヌシの別名は斎主神(イワイヌシノカミ)または斎之大人(イワイノウシ)であると書かれている。斎(いわい)は祝いと同じで、祀り(祭り)や神官のこと。
  • 香取地方周辺の地域には、祭祀や装飾に用いられる玉の石製模造品を作る製作遺跡および祭祀遺跡が集中している(『フツヌシ神話と物部氏』村山 直子 著)。

仮説3:「香取」の由来は阿波の「カンドリ」か?

  • 日本書紀に「フツヌシは東国の檝取の地に在り」とあり、「檝取」は「カンドリ」と読み「香取」であると考えられている。
    この「檝取」(カンドリ)は、吉野川流域を開拓した阿波忌部の「カンドリ船」に由来するという説がある(『日本各地を開拓した阿波忌部の足跡』林 博章 編著)。実際、阿波~安房道中の和歌山県の海沿いには、北西に「梶取」(カンドリ)、南東に「梶取崎」(カンドリサキ)という地名が残り、一方、安房の忌部上陸の地には「楫取神社」(カンドリジンジャ)が鎮座していた。
  • 阿波の「カンドリ船」は現在も残る木船のことである。一方の香取神宮は、船にまつわる盛大な神幸祭(フツヌシの東国平定を祝い御座船で神事を行うお祭り)を執り行っているように、船・海運と深い関係があると考えられる。

まとめ

上記より、側高神社および香取神宮の創建または発揚に、祭祀や玉作を得意とする天日鷲命系忌部氏の由布津主命(ユフツヌシノミコト)の関与が見えてきそうです。カンドリ船に乗り下総に上陸した命は、カンドリという名の社、その傍らに祖神を祀る社を設けます。これが現在の香取神宮と側高神社というわけです。

側高神社(脇鷹神社)祭神の隠ぺいには、忌部氏の足跡を隠したい勢力が関与しているのではないでしょうか。

門外漢の妄想ですので、暖かい目で見守ってください。

写真図鑑

拝殿

本殿

狛犬

新しい狛犬手前の古い狛犬。右側の一体だけが残っていました。変わった体型をしています。

鳥居

摂社、末社

小祠、石碑等

手水舎

授与所

四箇の甕

境内の樹木、ご神木

その他

息栖神社一之鳥居から見る側高神社

参拝順路

詳細情報

社号側高神社
ご祭神言わず語らず
境内社
住所香取市大倉1
その他■千葉県HP 側高神社
https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p111-037.html

■千葉県HP 側高神社本殿
https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p111-037.html

■香取市HP 2-5.側高神社のひげなで祭に見る歴史的風致
https://www.city.katori.lg.jp/culture_sport/bunkazai/fuuchi_keikaku/310326.files/Katori-rekimachi-2-2-5.pdf

参考

上記のWeb サイトのほかに、下記を参考にさせていただきました。

  • 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
  • 『千葉県香取郡誌』千葉県香取郡役所 編集・発行 1921年
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