鴨川市西町の庤神社(もうけじんじゃ)の概要


庤神社(もうけじんじゃ)は、亀田総合病院や鴨川シーワールドの北西約 1.5km、鴨川市西町の平野と山地の境界に鎮座する神社です。明治期から終戦期まで村社に列格していました。
祭神として次の神様が祀られています。
- 天大日孁貴命(あめのおおひるめむちのみこと)…天照大御神のこと
- 天日和志命(あめのひわしのみこと)…天日鷲命のこと
往古は「瀧口庤神社」「滝口痔神社」と呼ばれ、現在の神額には「瀧口庤明神」と書かれています。
「庤」について
「庤」は「もうけ」と読みます。これは当社(当地区)のみの場合です。
一般的な読み方は、辞書サイトに次のようにあります。
- 【庤】は「チ」「ジ」「たくわえる」と読む(Weblio)
- 【庤】【神庤】【神館】は「かむだち」「かんだち」と読み、伊勢神宮所属の諸国の神戸の御厨を意味する(コトバンク)
1180年以降に「瀧口庤神社」として創立か?
『安房志』の「小鷹神社」(=南房総市白浜町の下立松原神社)の記載より、当社は1180年以降に「瀧口庤神社」として創建されたことが分かります。
以下がその流れです。

=瀧口神社(鴨川市太尾)
- 1180年(治承4年)9月4日、源頼朝が瀧口大明神(太尾村)に参詣し願文と太刀を奉納したところ、霊験が著しく現れ、神の御加護が明らかに示された。夢の中にもその神託がはっきりと顕れた。
- 喜んだ頼朝は、自筆の神額を瀧口大明神(太尾村)に奉納した。
- 同月12日、東篠郷を瀧口大明神(太尾村)の御厨(神への供え物を調達する領地)として寄進した。

瀧口庤神社
=庤神社(鴨川市西町)

- その後、東條郷に、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祭神とする瀧口庤神社を建立した。
「瀧口庤神社」は「たきぐちかんだちじんじゃ」か?
上記の如く、瀧口大明神(太尾村)の御厨である東篠郷に、瀧口大明神と同祭神で社名の似た「瀧口庤神社」が新たに創建されました。「御厨」は「庤(かんだち)」と同義ですから、当社は本来、「瀧口庤神社(たきぐちかんだちじんじゃ)」だったのでしょうか?
天日鷲命を祀る「瀧口神社」
当社とよく似た「天日鷲命を祀る瀧口神社」が鴨川市内の近隣に二社鎮座しています。これらは、上述のように下立松原神社(南房総市白浜町滝口)と関わりのある神社のようです。
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創建・祭神に関する参考情報
庤神社 旧指定村社
祭神
天大日孁貴命(あめのおおひるめむちのみこと)天日和志命(あめのひわしのみこと)
由緒沿革
創立年代は不詳であるが、往古の勧請であるという。治承四年源頼朝が逃れて、当社に平家追討の祈願をこめられ、後に所願成就したので、この地を伊勢神宮に寄進し御厨の地としたと伝える。また一説には源頼朝がこの地を滝口神社の御厨料として寄進され、その後社殿を建てて滝口痔神社と称したともいわれる。明治初年村社に列す。
小鷹神社
(前略)寛治四年三月十五日。本州長狭郡太尾村に一社を建て。天日鷲命を斎き奉り。瀧口大神と號す。三十四代義俊次男義茂を遣して祝部とし。由布津主命射給ひたる魁鹿の角を分與し。当社の寶とし。以て万代同統の證と為す。治承四年九月四日。右兵衛佐源朝臣頼朝於御陣参上。而被許拜賜。而後神領之四至。如舊來可為安堵之御下文給畢。於是蒙臺命而武運長久旨。盡丹誠奉祈騰矣仍之翌五日有御参詣於社頭而被添御願書於家平太刀奉籠社中即御通有之間。霊駿炳焉。感應端想。夢中顕然也。於是武衞喜悦不斜。而奉拜思賴。尚為輝神威瀧口大明神有自御染筆而奉懸御額於神前又同十二日御寄進状。給為御厨料於東條郷。寄附功田訖。其旨趣者。為志願圓満也云々。爾後東條郷に社を建て。天日鷲命を祭り。瀧口庤神社と號す。即ち是なり。(後略)
書き下ろし文・現代語訳
書き下ろし文
寛治四年三月十五日、本州長狭郡太尾村に一社を建て、天日鷲命を斎き奉り、瀧口大神と号す。三十四代義俊の次男義茂を遣わして祝部とし、由布津主命の射給ひたる魁鹿の角を分与し、当社の宝とす。以て万代同統の証と為す。
治承四年九月四日、右兵衛佐源朝臣頼朝、御陣に参じ、拝謁を許され、恩賜を賜ふ。その後、神領の境界は旧のごとく安堵すべきの旨、御下文を賜ふ。
ここにおいて、朝廷の命を奉じ、武運長久を祈り、誠を尽くして祈願す。翌五日、社に参詣し、願文を添へ、家平の太刀を社中に奉納す。ここに霊験顕著にして、神の御加護明らかなり。夢の中にもその神託を蒙る。
これにより、武衛大いに喜び、神徳を敬ひ、神威の輝きを称ふ。瀧口大明神に対し、自ら筆を執り、神前に額を奉納す。また、同月十二日、寄進状を発し、東條郷を神社の御厨として寄進す。その趣旨は、願望成就を祈るがためなりといふ。
その後、東條郷に社を建立し、天日鷲命を祭神として祀り、瀧口庤神社と号す。これその由来なり。
現代語訳
寛治4年(1090年)3月15日、本州の長狭郡太尾村に一つの神社を建立し、天日鷲命(あめのひわしのみこと)をお祀りし、「瀧口大神」と名付けた。第34代義俊の次男である義茂を派遣し、神事を司る祝部(はふりべ)とした。そして、由布津主命(ゆふつぬしのみこと)が射た霊鹿(魁鹿)の角を分かち与え、これを神社の宝とした。これによって、末永く同じ血統を受け継ぐ証としたのである。
治承4年(1180年)9月4日、右兵衛佐(うひょうえのすけ)源朝臣頼朝(源頼朝)が御陣(軍営)に参上した。そして、拝謁を許され、恩賜を賜った。その後、神領の境界は従来どおり安堵(保障)されるべき旨の御下文(正式な文書)が下された。
そこで、朝廷の命を受け、武運長久を願い、誠心誠意を尽くして祈願を捧げた。そして、翌5日には社を参詣し、願文を添え、家平(いえひら)の太刀を社中に奉納した。すると、霊験が著しく現れ、神の御加護が明らかに示された。夢の中にもその神託がはっきりと顕れた。
これを受け、武衛(頼朝)は大いに喜び、神への信仰を深めた。そして、神威の輝きを称え、瀧口大明神に対し、自ら筆を執って神前に額を奉納した。また、同月12日には寄進状を発し、東條郷を神社の御厨(神への供え物を調達する領地)として寄進した。その趣旨は、願いが成就することを願ってのことであるという。
その後、東條郷に社を建立し、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祭神として祀り、瀧口庤神社と号した。これがその由来である。
写真図鑑
社殿




















狛犬








鳥居








常夜灯








小祠、石碑等










手水、神輿庫、社務所








境内風景




参拝順路
















基本情報
社号 | 庤神社 |
ご祭神 | 天大日孁貴命(あめのおおひるめむちのみこと)、天日和志命(あめのひわしのみこと) |
境内社 | |
住所 | 鴨川市西町701 |
その他 |
参考
上記のWeb サイトのほかに、下記を参考にさせていただきました。
- 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
- 『安房志』斉藤 夏之助 著 1908年