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陸地の「フネの社」は日本最古級か?――加曽利から考える

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目次

序論

若葉区加曽利の「貴船神社」

千葉市若葉区加曽利町。都川河口から東へ直線で約4kmほどの高台に、「貴船神社」が鎮座しています。

祭神は高龗神(たかおかみのかみ)などとされますが、創建年や由緒は明らかではありません。京都の「貴船神社 本宮」を勧請したことを示す記録も確認されておらず、いつ、誰によって、何を目的として創建されたのかは不詳とされています。

一方で、近世には旧村社に列格し、村内に複数の末社を有していたこと(現在は合祀)から、地域社会において篤い崇敬を集める地元の鎮守であったことがうかがえます。

千葉市若葉区加曽利の「貴船神社」の社殿正面

地形から読み解く、陸地の「フネの社」

地形と社名とのあいだに見られる、ある種の不整合が、本稿の出発点です。

なぜ、海から遠く離れた丘陵地の上に、社名に「フネ」を冠する神社があるのでしょうか? 社のすぐ南を流れる都川も、舟が自由に往来できるほど大きな河川ではありません。

現在の都川下流の地形図。
都川河口から「貴船神社」(若葉区加曽利町)までは、直線で約 4km、谷伝いで約 6km ほどある

この疑問に対し、筆者は浅学ながらも、歴史地理学的な視点から当地の地形や環境変化を見直すことで、当社の創建に関する一つの仮説にたどり着きました。

すなわち、

  • 当地が海に面していた時代を縄文期まで遡って考える必要があること
  • 近隣に、当時の日本列島を代表する拠点の一つであった加曽利貝塚が存在すること
  • そして、当社の立地が舟着き場として極めて適した地形を備えていること

これらの点を総合すると、当社は場合によっては、「日本最古級の神社」の一つとして位置づけることも可能なのではないか——そのような考えに至りました。

全国的に見れば、今後、同様の事例が各地で見いだされる可能性もあるでしょう。本稿が、そのような検討の出発点となる一事例となれば幸いです。

本稿は、以上の視点に基づく試論です。大胆な推測を含みますが、寛大な気持ちで読み進めていただければ幸いです。

陸地の「フネの社」は日本最古級か?

旧石器時代の千葉県

かつては、「人類はマンモスを追って陸伝いに日本列島へ到達した」と説明されることが一般的でした。しかし現在では、当時の日本列島とユーラシア大陸は地続きではなかったことが明らかになっています。そのため、近年では「人類は津軽海峡・対馬海峡・沖縄周辺を舟で渡り、日本列島に上陸した」という説が最も有力とされています。

旧石器時代の海面は現在より約 80m も低かったと考えられている。
薄緑が当時の日本の輪郭で、大陸とつながっていないことがわかる。
<千葉市立郷土博物館の展示を筆者撮影>

日本の旧石器時代が始まると、人々は列島各地に居住するようになりますが、その中でも人口が特に集中していた地域の一つが千葉県であったと考えられています(『日本列島の旧石器時代遺跡』)。なかでも酒々井町の墨古沢周辺は、当時の列島内でも有数の人口密集地であった可能性が指摘されています。

旧石器時代の人口分布。
もっとも人口が多かったのは千葉県。
参考:『日本列島の旧石器時代遺跡』

この人口増加は、縄文時代になっても続き、千葉県の人口は全国でも縄文時代後期までトップクラスを維持し続けます。

縄文時代の人口分布。
後期まで千葉県の人口は高い水準にある
参考:『人口で見る日本史』

旧石器~縄文時代の注目すべき点として、下総地域の様々な遺跡から、伊豆諸島・神津島原産の黒曜石が確認されています。神津島は南房総の先端から約100kmも離れた海上に位置します。これは、当時の人々が舟を用い、外洋を越えて黒曜石を運搬していたことを強く示唆するものです。

現在の地図
赤丸が神津島

古代の都川

本稿の舞台である「貴船神社」および都川流域にも、旧石器~縄文時代、継続的に人々が暮らしていたと考えられます。

旧石器時代には、海水面は現在より数十メートル低く、「貴船神社」の立地はかなり内陸であったと推定されます。

一方、縄文時代に入って気候が温暖化すると海面は上昇し、都川を遡るかたちで海が内陸へと侵入していきました。縄文時代前期(約6,500年~約6,000年前)の海進最盛期には、周辺の最高潮位が約4m、満潮時の潮間帯が標高4〜7mに達したと報告されています。これを現在の地形に当てはめると、次の地図のようになります。坂月川との合流点付近まで海水が及んでいた可能性があります。

縄文海進時の都川周辺地図
青色:当時の海面 約4m
水色:満潮時の海面 約4〜7m

このような環境変化を背景として、都川流域には多くの集落が形成され、人口が集中したと考えられます。その象徴的な存在が、日本有数の規模を誇る加曽利貝塚です。

加曽利の人々

加曽利北貝塚・南貝塚の発掘調査から、当時の人々の食生活は比較的詳しく復元されています。彼らは海産資源への依存度が非常に高く、シカやイノシシなどの陸上動物はあまり狩猟せず、淡水魚の利用も限定的であったことがわかっています。

縄文時代後期の加曽利の人々は、比較的リスクを避ける行動様式をとっていたようで、浅瀬に丸木舟を浮かべ、沿岸性のクロダイをヤスで突いたり、網で小魚を捕獲したり、浜辺でイボキサゴを採集するといった漁撈活動を中心に生活していたと考えられます。外洋に出ることは、好まなかったようです。

一方、近隣の亥鼻山に位置する矢作集落では、対照的に、舟で東京湾の中央部付近まで進出し、外洋性のマダイを釣るなど、より高いリスクを伴う漁労を行っていた可能性が指摘されています。

加曽利の港

では、加曽利の人々は、どこに舟を停泊させていたのでしょうか。ここで重要になってくるのが「貴船神社」周辺の地形です。

神社境内を降り周辺の低地を仔細に見ると、

  • 波浪から守られる地形
  • 丸木舟を容易に陸揚げできる低地

といった条件が揃っており、天然の良港、あるいはラグーン(Lagoon)状の地形として機能していた可能性が考えられます。当サイト筆者は、集落に近く、かつ舟着き場として極めて適したこの場所の存在が、加曽利貝塚の発展に少なからず寄与したのではないかと考えています。

縄文海進時の「貴船神社」周辺地形。
⛩マークが「貴船神社」。
境内のある台地の周辺は、舟を陸揚げするのに都合の良さそうな低地に見える
南の低地から見た当社の鎮座する丘陵地。
この周辺まで海が迫り舟が停められていたのか?

加曽利の祈りの場

現在の鳥居をくぐり、階段を上った地点からは、南方に広がる海を見下ろすことができたはずです。このような眺望をもつ場所において、豊漁や航行の安全を祈る「フネの社」が営まれていたとしても、不自然ではないでしょう。これこそが、当社「貴船神社」の原初の姿であった想像できます。

その後、徐々に海退が進み、当地が再び陸化していくにつれて、人々の生活に占める海の比重は次第に低下していったと考えられます。それに伴い、当社への信仰のあり方もまた、変化していったことでしょう。縄文晩期には寒冷化により全国的な人口減少が起こったことが知られていますが、こうした環境変動が信仰内容の変容を後押しした可能性もあるでしょう。

「貴船神社」に変遷

創建由緒不詳の「フネの社」は、その後も地域の鎮守として崇敬され続けました。奈良時代以降になると、「船を祀る社であれば、有名な京都の貴船神社と同じにしよう」という考えが生まれ、高龗神を祀る「貴船神社」へと名を改めたのかもしれません。社殿は南向きとなり、高台を進んだ奥に鎮座するという、後世の神社に共通する配置が整えられました。——こうして、縄文の海とともに生まれ、時代とともに姿を変えてきた「日本最古の社」の記憶が、今日の「貴船神社」へと静かに受け継がれていると考えてみるのも、一つの見方ではないでしょうか。

なお「フネの社」の当初の名前は、木舟に感謝し「キフネ/キブネの社」だったかもしれません。

県内の他の「フネ」の神社

最後に、千葉県内において、縄文期に遡る可能性をもつ他の「フネの社」が存在しないかを検討してみましょう。

『千葉県神社名鑑』をもとに、「貴船神社」を名乗り、創建年・由緒が不詳で、かつ縄文海進期に海没しない立地にある神社を抽出したところ、加曽利の「貴船神社」を除いて、次の四社が確認されました。

  • 山武市松尾町の「貴船神社」
  • 安房郡鋸南町保田の「貴布禰神社」
  • 南房総市岩糸の「貴船神社」
  • 館山市稲の「貴船神社」

これらの神社と加曽利の「貴船神社」の位置を縄文海進期の推定地形図と重ね合わせ、地理的な検討を行いました。

縄文海進時に海没しない創建年不詳の「貴船神社」

赤●印:貴船神社

千葉市若葉区加曽利町の「貴船神社」

赤●印:貴船神社

山武市松尾町の「貴船神社」

赤●印:貴船神社

安房郡鋸南町保田の「貴布禰神社」

赤●印:貴布禰神社

南房総市岩糸の「貴船神社」

赤●印:貴船神社

館山市稲の「貴船神社」

赤●印:貴船神社

その結果、これらの神社に共通するいくつかの顕著な傾向が浮かび上がってきました。すなわち、

  • 房総半島の内陸深部や大丘陵の中央ではなく、海側に位置していること
  • 二級河川の下流域に立地していること
  • 河口から極端に離れておらず、外洋に直接面さない、樹枝状丘陵などによって波浪の影響を受けにくい地形であること
  • 舟の停泊に適した港湾的性格をもつ低地を見下ろす位置にありながら、社地そのものは標高20m以上の安定した高所に置かれていること

いずれも、偶然と片付けるには共通性が高く、「舟」と深く関わる立地条件を備えているように見えます。

丸木舟出土遺跡との関係

次に、これらの神社の周辺において、縄文期の丸木舟が出土していないかを検討しました。

その結果、南房総市岩糸の「貴船神社」の近隣では、当社から南西約1.4km、丸山川を挟んだ対岸に位置する加茂遺跡から、縄文時代前期の丸木舟が二例出土していることが確認できました。

赤●印:貴船神社
黄●印:丸木舟が見つかった遺跡

また、山武市松尾町の「貴船神社」に関しては、社地と台地を隔てた反対側の栗山川とその支流域において、集中的に丸木舟が出土しています。この地域は、日本でも有数の丸木舟集中出土地域として知られ、流域全体でおよそ50隻近くに及ぶ出土例が報告されています。

赤●印:貴船神社
黄●印:丸木舟が見つかった遺跡

県内事例から見える可能性

以上の検討から、本稿の主軸である加曽利の「貴船神社」に限らず、千葉県内の四社の「貴船神社」においても、縄文期における「フネの社」の存在を想定しうる次の条件が整っていることが明らかになりました。

  • 社名に「フネ」を冠する
  • 創建年・由緒が不詳
  • 縄文海進期の海岸線沿い、河口近くの港湾的地形に立地する

とりわけ、二社については、神社近隣または周辺流域から丸木舟が実際に出土している点で、その可能性はより高いものと考えられるでしょう。

これらの神社もまた、当初は豊漁や航行安全を祈る「フネの社」として成立し、後世になって「貴船神社」の名と祭神を与えられ、現在の姿へと整えられていった——そのように捉えてみることも、一つの有力な見方ではないでしょうか。

結び

以上、社名に「フネ」を冠する神社について、歴史地理学的な視点から創建の可能性を検討してきました。その結果、複数の地域で、縄文期にまで遡る「フネの社」信仰を想定しうる状況が浮かび上がり、場合によっては「日本最古級の神社」と位置づける余地すら感じさせます。

今後、現時点で丸木舟の出土が確認されていない神社周辺の港跡やラグーン状地形から、新たな発見がもたらされることがあれば、本稿で示した可能性は、さらに具体性を帯びてくるでしょう。その日を静かに期待しつつ、本稿を一つの試論として提示したいと思います。

おまけの雑談

「香取神宮」「鹿島神宮」も天然の良港

大和朝廷東国支配の最重要拠点と言われる「香取神宮」「鹿島神宮」も、外界の海(香取の海)と直接面しておらず、軍港を作るのに良さそうな天然の良港(ラグーン状地形)のかたわらに鎮座しているように見えます。

古代はどんな舟?

旧石器時代の舟

旧石器時代の舟の材料・形などは不明です。「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」(東京大学総合研究博物館 海部陽介教授 他)で行われた台湾から与那国島への渡航実証実験では、流れの速い海洋の航海では草や竹よりも木製の丸木舟(まるきぶね)が適していることが示されています。

縄文時代の舟

縄文時代の舟としては、全国で200例ほどの丸木舟が出土しています。なかでも千葉県からの出土数がもっとも多く、その数は128例にのぼります。

国内最古の丸木舟も千葉県からで、市川市の雷下遺跡からは、縄文早期(約7,500年前)の丸木舟が出土しています。

以下に千葉県から出土した縄文時代の丸木舟の概要をまとめました。

丸木舟とは?

丸木舟は、一本の大きな樹をくり抜いて作った、縦長のカヌーのような小舟です。

以下は、筆者の大好きな千葉県立中央博物館で撮影した丸木舟と櫂(かい)の写真です。実物を見ると、かなりの長さでびっくりしました。

加曽利貝塚はいつの遺跡か?

加曽利貝塚にヒトが住み始めたのは、縄文時代前期にあたる約7,000年前のこと。遺跡名は加曽利貝塚ですが、当初は大きな貝塚はなかったようです。のちに次の2つの巨大貝塚が作られました。

  • 【加曽利北貝塚】
    縄文時代中期(約5,000~4,000年前)、直径約140mの環状貝塚。
  • 【加曽利南貝塚】
    縄文時代後期(約4,000~3,000年前)、直径約190mの馬蹄形(Ωの形)の貝塚。埋葬されたイヌの骨が出土。

加曽利貝塚では、約7,000年前から数千年間にわたり、縄文人住んでいたようです。

加曽利で舟は使ったのか?

加曽利を含む都川流域からは、まだ舟は見つかっていないようです。しかし、

  • 県内各所で縄文期の丸木舟が見つかっている
  • 旧石器・縄文時代、神津島まで黒曜石を取りに行っている
  • 舟に載らずにクロダイの刺突漁を行うことは考えにくい

などの理由から、縄文期、当地域での舟の使用が示唆されます。

令和七年に加曽利貝塚博物館が開いた講座「縄文人と丸木舟」でも、複数の研究者が「将来、加曽利近隣から丸木舟が出土する可能性は高い」と仰っていました。

参考

関東地方では、中期から後期にかけて単純銛の発達が見られる。これらの漁撈活動に付随して、欠くことのできないものが、舟の存在である。
当時の舟としては、県内各地からその出土例が伝えられているが、市内においても朝日ヶ丘町の東京大学検見川総合運動場内の検見川泥炭遺跡から、カヤの木を使用した丸木舟が出土している。
参考:『千葉市史 第1巻』(P144)

加曽利南でも住民が直接クロダイや多様な小型魚の量を行っていた可能性が高い。とくにクロダイは、大型の個体は干潟などでは取るのが難しいと推測されることから、遺跡から直接舟で海に行ったのか、海岸に舟付き場があったのかはわからないが、おそらく舟は利用されていただろう。
参考:『動物遺体からみた海洋資源獲得と丸木舟利用の可能性』(樋泉 岳)

収集データ

本稿を書くにあたり調査したデータを列挙していきます。

旧石器時代の神津島産黒曜石が見つかる県内の遺跡

加曽利貝塚の黒曜石の産地

年代別都川流域事象

加曽利貝塚の縄文人は何を食べた?

主な参考:『動物遺体からみた海洋資源獲得と丸木舟利用の可能性』(樋泉 岳)、『貝塚出土の動物遺体』(金子 浩昌)、『千葉市史 第1巻』P139

縄文時代後期の加曽利貝塚と矢作貝塚の縄文人は何を食べた?

都川中流の加曽利南貝塚(以下、加曽利南)、および、都川河口の矢作(やはぎ)貝塚(以下、矢作)から出土する動物遺構です。

貝類
  • 加曽利南・矢作ともに、イボキサゴとハマグリを主体とする海産貝類が出土。
  • 加曽利南ではヤマトシジミが極めて少ないのに対し、矢作ではヤマトシジミが多い(20%以上)

加曽利南の人々は、都川河口に豊富に生息するヤマトシジミを舟でスルーしていたのか?

大型魚類(タイ類、スズキなど)
  • 加曽利南・矢作ともに、クロダイが最も多い。
  • 加曽利南ではマダイを欠いているのに対し、矢作では最重要な漁獲物のひとつになっている。

クロダイは内湾性で沿岸の浅場、マダイは外洋性で東京湾中央の平場(内湾部)に生息。

加曽利南・矢作ともに、ヤス先がでる。加曽利南では釣針は出ないが、矢作では釣針も出土。

小型魚類(イワシ・アジ、大型魚の幼魚)

加曽利南・矢作ともに、様々な種類の小型魚類が多数出土。

両地域で、漁獲用の網に付ける重り(おもり、錘)として用いる漁網錘(ぎょもうすい)が多数出土

淡水魚

内陸に位置する誉田高田貝塚では、フナなどの淡水魚を主体としているが、同様に、淡水域が存在する加曽利南は、淡水魚の利用は極めて低調で、海産魚に対する選択制が明確。

主な参考:『動物遺体からみた海洋資源獲得と丸木舟利用の可能性』(樋泉 岳)、『貝塚出土の動物遺体』(金子 浩昌)、『千葉市史 第1巻』P139

千葉市若葉区加曽利町の「貴船神社」の基本データ

社号貴船神社
ご祭神高靇神、天御中主神、木之花佐久夜比賣命、建速須佐之男命、誉田別命
住所千葉市若葉区加曽利町963

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

『千葉県神社名鑑』抜粋

通称 貴船大明神 旧村社

祭神
高靇神(たかおかみのかみ)天御中主神(あめのなかぬしのかみ)木之花佐久夜比賣命(このはなさくやひめのみこと)建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)誉田別命(ほんだわけのみこと)

由緒沿革
慶安三年四月社殿改築、元禄元年社殿再建。大正三年七月村中の末社を合祀した。大正七年五月と昭和一六年六月に社殿改築。

Webサイト

書籍、論文

  • 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
  • 『加曽利貝塚と坂月川と縄文の海ー海水はどこまで流入したのか?一』木口裕史(千菓市都市アイデンテイティ推進課) 2019年
  • 『加曽利北貝塚出土黒曜石の原産地推定』建石 徹・二宮 修治
  • 『加曽利南貝塚東傾斜面出土黒曜石の原産地推定』建石 徹・二宮 修治
  • 『丸木舟を訪ねて(1)』松井 哲洋
    https://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/files/1519011537435/simple/16%E4%B8%B8%E6%9C%A8%E8%88%9F.pdf
  • 『日本列島における原始・古代の船舶関係出土資料一覧』深澤 芳樹 2014年
    http://icfcs.kanagawa-u.ac.jp/publication/sosho/report_05_02_05.pdf
  • 『千葉市史 第1巻』千葉市史編纂委員会 編 1974年
  • 『貝塚出土の動物遺体』金子 浩昌 編著
  • 加曽利貝塚博物館 特別研究講座「縄文人と丸木舟ー加曽利貝塚にはあったか?-」当日資料
    • 『房総半島の丸木舟と都川流域における舟利用』蜂屋 孝之
    • 『動物遺体からみた海洋資源獲得と丸木舟利用の可能性』樋泉 岳二
  • 『旧石器時代の移動』国武 貞克
  • 『関東細石器考』橋本 勝雄 1998年
  • 『千葉県における縄文時代丸木舟の出土例について』沖松 信隆

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