はじめに
「香取神宮」の南南東3.5kmほど、香取市の中央付近に「織幡(おりはた)」「旗鉾(はたほこ、幡鉾)」という集落があります。
両集落は、神宮関連の社もなく、一見すると神宮との関連がなさそうに見えますが、明治八年再興の第一回 軍神祭(現在の式年神幸祭)では、御神輿の前後の随伴を「旗鉾村」「織幡村」の住民が任されるという大変な厚遇にあずかる不思議な地域です。
周辺地域の細かな伝承を繋げることで、次のような神宮創建の前日譚が見えてきました。
経津主命(ふつぬしのみこと)が、現在の成田市を経由し、香取市の「織幡」「旗鉾」に降臨した。命が亡くなると、当地「平石」に埋葬され、御幣が「香取」に遷された。当地周辺では、機織りが広く行われていた。
まだまだ資料が乏しく常に調査中ですが、本稿では備忘録を兼ねて、現時点でわかっている内容を随時列挙していきます。
「織幡」および近隣地名
まずは、「織幡」近隣の地名を見ていきましょう。織物、特に麻布と絹布にゆかりのある地名がたくさん残っているのが特徴的です。
成田市
| 地名 | 説明 |
|---|---|
| 幡谷(はたや) | 経津主命が旗を持って下を見下ろすと谷が広がっていたため、旗谷(のちに幡谷)と呼ぶようになった。 |
| 名馬塚 | 成田市幡谷にあり、経津主命が乗っていた馬を祀る馬頭観音(馬頭観世音)が立っている。 |
香取市
| 地名 | 説明 |
|---|---|
| 香取 | 絹布部(かとりべ)の住んだ地とも、堅織が加止里と転じたとも言われる。 |
| 小見川(おみがわ) | 麻績部(織物の職人)がいた。 絹にゆかりがあると言われる。 |
| 織幡(おりはた) | はとり部の住んだ地。 絹にゆかりがあると言われる。 |
| 幡鉾(はたほこ、旗鉾) | はとり部の住んだ地。 幡(はた)の字は織(はた)で、古文書には「織服」と書く。 絹にゆかりがあると言われる。 |
| 油田(あぶらた) | ─ |
| 虫幡(むしはた、蟲畑) | 絹にゆかりがあると言われる。 |
| 八本(はちほん) | 麻績部がいた。 |
| 桑畑 | 養蚕が始まったころ、桑を植えた場所。 |
| 平石 | 当地に経津主命が葬られた。 織幡にあったというが、現在は虫幡か? |
郷土誌『伝承を考える』
民族研究家 平野 馨 氏の郷土史『伝承を考える』に、地元の方からの言い伝えとして、成田の「幡谷」を訪れた「経津主命」の行動が記されています。以下のような内容です。
成田市の「幡谷」から「土室」に通じる三叉路に、「馬頭観音(馬頭観世音)」が立っており、この場所は「名馬塚」と呼ばれています。
東国平定のため当地を訪れた「経津主命(ふつぬしのみこと)」の愛馬が、長旅のためとうとう倒れてしまいました。命は馬を憐れみ、この場所で祀りました。
現在も地名「幡谷」「土室」は現役で、話の舞台と思われる三叉路に馬頭観世音も立っていると思われる
命は、椎の木に腰をかけて、陣を張る場所を考え探しました。
命が休息した時、旗を持って下を見下ろすと、谷が広がっていました。そのため、当地は「旗谷」と呼ばれ、のちに「幡谷」と改められました。
命はこの地に陣を構えることに気が進まず、更に東へと軍を進め、現在の「香取神宮」の地に落ち着いたと言われます。
他の文献では記されない貴重な伝承
「経津主命」が馬に乗って成田市の「幡谷」に来た、という大変貴重な資料です。
日本に最初に馬が伝わったのは4世紀末とされています(公益財団法人馬事文化財団)。そのため、
- 4世紀末以降に命が来た
- 馬に関する別の伝承と重ねられた
のどちらかのように思われます。
当地から更に東へ進んだ命の行動については、次の書物に記されています。
誌史『神里のあゆみ』
「神里村」(旧 香取郡神里村)の地方誌史『神里のあゆみ』に、「経津主命」の降臨と、「香取神宮」の創建について、大変興味深い内容が記されています。以下に、概要をまとめていきます。
- 本情報は「こころのサロン 星しるべ」様にご教示いただきました。
「経津主命」の降臨と統治
当時の香取の住民は、木製・石製武器で獣を捕えるような生活をしていました。
ここに、天照大神の命(めい)を受けた経津主命が次のルートを通って現れました。
得香(成田市の「取香」か?)
↓
馬乗里(まじょうり)(成田市)
↓
旗鉾(香取市)

中央の青スポット:馬乗里、
右の赤スポット群:織幡・旗鉾地区の関連場所
上の黒スポット:香取神宮
命は、「旗鉾」(香取市)の西北端にある高台から「常陸」の方を望みました。この地は「トメ塚」(後述)と呼ばれ、現在でも不浄を忌むと言われます。
原住民はみな、命に従ったため、命は「トメ塚」のやや西方の「妙見堂」で四方を治めました。
- 「トメ塚」の位置は判然としません。
「経津主命」の逝去と「香取神宮」創建
「経津主命」が亡くなると、「織幡字別所」の「平石」に葬られました。
命の「武甕槌命の、常陸の見える地」をという遺志により、御幣が「香取」に移されました。この地は、大江を挟んで関門のようであり、天然の要地だったからでしょう。従う者が、「織幡」から七十三人、「油田」「新福寺」から一人ずつ、そして「油田」から神馬が捧げられたため、この辺は急に寂しくなったそうです。
- 「平石」は香取市の「虫幡」集落にあると思われますが、位置は判然としません。


中央下:織幡・虫幡地区の関連場所
他の文献では記されない貴重な伝承
「香取神宮」関連の資料はいくつも見てきましたが、
- 「経津主命」が「織幡」「旗鉾」の「トメ塚」近隣の「妙見堂」を拠点に開拓(弥生化か?)を行った
- 命は「平石」という場所に葬られた。
- 遺言により、武甕槌命の常陸の見える場所へ御幣が移された。
という内容は初めて見ました。
①の「トメ塚」(後述)、②の「平石」については、今後、現地調査をしようと思います。
③に関し、何度訪れても、「香取神宮」から鹿島を見渡すのは難しいように感じられます。命の御幣が祀られたのは、「鹿島の森を一望に見はるかし風光絶佳」(『千葉県神社名鑑』)とされる「側高神社」でしょうか?

中央下:香取神宮

そのすぐ右の▲:側高神社(香取市大倉)
右上の紫▲:鹿島神宮
紫の線:香取神宮と鹿島神宮を結ぶ線

右上の紫▲:側高神社(香取市大倉)
紫の線:香取神宮と鹿島神宮を結ぶ線
誌史『小見川町史 通史編』
「小見川町」の地方誌史です。上記『神里のあゆみ』の内容を踏襲しつつ、独自の情報もいくつか見られます。以下に抜き出していきます。
香取の神様が南のほうから来た。織幡の小高い所に立って四方を見わたすとみな従った。なくなって平石に葬ったが鹿島の見える香取神宮の所にまつった。明治の始めまで毎年神宮の神官が平石に来ておまつりしたそうだ。お田植祭に大きな傘に神田の名を書くがそれは織幡の古い田の名である。
神幸祭に織幡では神のそば近くに、ヒレホコとベニミハタをささげてお供するのは、このようなわけである。神のあかりをあげる油田では神馬をそなえ、一の鳥居、トリイバナ(鳥居鼻)、マアライ(馬洗)、バッケサキ(馬繫岬)がある。勅使がとまった大ねぎやかたあとがあり、近くにその寺のあともある。織幡では人形送りの行事があった。
織幡・旗鉾は、はとり部の住んだ地といい、軍神祭には、紅御旗・比礼鉾を捧げて供奉するが、初め、この地に在たといわれる。香取神宮と関係の深い、惣持院の本尊が、愛染明王であったことと、無縁であったろうか。
古代のこの地は、その地名が麻の生産を示す「麻績郷」(和名抄)であったことを見ても、麻を衣料として使用したことが明らかである。ここで生産された麻は中央政府(平城・平安京の政庁)に調布として貢納されたものであるが、当然地域の人々の主な衣料としても使用されたはずである。日本では毛と綿は古くは生産も使用もされず、主として絹と麻(苧麻を含む)が使われ、絹は貴人や晴着に、麻は庶民の作業衣、平常着に専ら用いられた。ただ「布」といえば麻のことを意味するほどになっていたわけである。
絹は軟かくて光沢があり、保温もよく染色にも適していたが洗濯に弱く、産額も多くなかったから貴重品であった。麻は堅くて丈夫、染めにくいが、洗濯にたえ、美しくはないが大量に生産され、国民的衣料として大いに用いられた。
香取神宮の、行事の最たる軍神祭は、十三年目ごとの、午年の四月十四日・五日に、大祭が行われる。
明治八年再興第一回神幸軍神祭供奉列次に
次立 白御旗白丁二人 旗鉾村
次立 随身二員騎馬
次立 大御神輿 輿丁二十人綱取四人
次立 赤御旗白丁二人 織幡村
と、神輿の前後を、旗鉾・織幡が供奉しているのを、みてもいかに遇せられたかがわかる。
神宮関連の貴重な情報
神宮神官が「平石」をお祀りしていた
明治の始めまで、毎年、神宮の神官が、「平石」に葬られた「香取の神様」をお祀りしていたとあります。
「平石」(香取市虫幡)には、現在もその痕跡を残すものはあるのでしょうか? 大変気になるところです。
「香取神宮」にとって特別な地域
神宮の最も重要な祭典に「軍神祭」があります。明治八年に再興した第一回 軍神祭の列次を見ると、
- 御神輿の二つ前に、白御旗を立てた「旗鉾村」の従者2人
- 御神輿のすぐ後に、赤御旗を立てた「織幡村」の従者2人
とあり、大変重要な場所を「織幡村」「旗鉾村」の住民が随伴していたことがわかります。
神宮の神田があるというだけでは、このような厚遇は得られないでしょう。やはり、「香取の神様」が降臨し、没したところは、当地なのではないでしょうか?
郷土誌『房総の伝説』

『房総の伝説』(荒川 法勝)という書籍に、「星塚の物語<佐原市>」という、当地を舞台に「香々背男」「建葉槌」「経津主」「武甕槌」の登場するとんでもない伝承が掲載されています。
地名の載る箇所を抜粋させていただきます。
地名が載る箇所
- 地名には下線を引いてある
この楫取(かとり)の郷は平和であり、安是の海の貝や魚は夥しく、森の果樹は夕日より赤く、るいるいと熟れていた。
香々背男は、トメ塚に登るのが好きであった。小高い丘のトメ塚から見下ろすと、安是ノ海の彼方の常陸まで、よく眺められた。
経津主と、建葉槌が、トメ塚に登った。大鹿は、二神(香々背男と武甕槌)を乗せると、ザブザブと、銀波の安是ノ海を泳ぎ始めた。向こうの島に鹿の影が、だんだんと吸い込まれていく。
(中略)
その後、武甕槌命は鹿島の地に居着き、そして、香々背男の行方は、杳として知れなかったという。
どこまでが史実か?
是非、美しいアニメーション映画にしてほしい内容ですが、どの部分が史実かは不明です。誌史『神里のあゆみ』とは、次の箇所が一致しています(情報ソースは同じかもしれませんが)。
- 「織幡」近隣に「経津主命」が降臨し、当地を開拓
- 「トメ塚」なる高台があり、「常陸」を見渡せる

『房総の伝説』という書籍は、作者別に三種類があるようです。
今回参考にさせいただいたのは、荒川 法勝 氏のお名前だけがある、左のもののになります。
今のところのまとめ
「織幡」とその周辺は、「香取神宮」にとってかなり関係の深い集落のようです。
当地に降臨し周辺を統治した「香取の神様」(経津主命)は、当地周辺の「平石」に葬られ、鹿島を見下ろす場所に御幣が祀られたといいます。神宮神官は、近年(明治初期)まで、「平石」で「香取の神様」を祀っていたと言います。
情報がほとんどなく、目立った史跡もなさそうな当地域ですが、今後、注視していこうと思います。
参考
下記を参考にさせていただきました。
抜粋
P114
六、房総の馬と民俗のことなど
成田市の幡谷から土室に通じる三叉路に馬頭観音が立っている。この場所を名馬塚というが、これは佐原の香取神宮の祭神である経津主命(フツヌシノミコト)が東国平定のためこの地にやってきた時、乗っていた愛馬が長途の遠征に疲れ、とうとうここでたおれてしまったのでその馬をあわれんでまつったところだといわれている。ここにやってきた経津主命は、椎の木に腰をかけて陣を張る場所を考え探したといい、その時の椎だと伝える木が幡谷の神崎さんの家の庭にある。また、幡谷(ハタヤ)という地名も命が休息した時、旗を持って下を見下ろすと谷が広がっていたので旗谷と呼ぶようになったが、後に表記のほうは幡谷と改められたと伝えている。(椎も旗も古来、神のよりつく神聖なものとされるがいま本題ではないので触れない。)
なお命はこの地に陣を構えることに気が進まず、更に東へと軍を進め現在の香取神宮の地におちついたといわれる。(神は目的地に直進することなく、しばしば途中で休んだり方向を変えたりしながら前進したと伝えられていることがある。)以上の話の筋は小倉博さんから教えられたところである。
二、口碑と伝説
(中略)
(2)香取様のゆかり
(前略)
木や石で作ったもので、けものを捕へたり、単調な生活を過した原住民に、大きな変化が起こった。経津主命が、天照大神の旨をうけてお出でになったのだ。経津主命は、得香、馬乗里を経て、旗鉾の西北端まで来られ、その高い地点で遥かに、常陸の方まで望まれたという。この地点を、トメ塚といって、今でも不浄を忌むといはれる。
住民は、皆 従ったので、経津主命は、トメ塚の やや西方の 妙見堂で 四方を治められたが、今も付近の松原というところで古い遺物が掘り出される。なくなられて、織幡の 字別所の 平石の所へ葬り、武甕槌命の、常陸の見える地をという遺志により、御幣を、香取に移した。地勢も、大江を挟んで、関門のようで、その上、天然の要地であったからである。従う者が、織幡から、七十三人、油田、新福寺から一人宛と、油田から 神馬がささげられた。そのために、この辺が、急にさびしくなったそうである。
(後略)
(3)人類のあけぼの
(前略)
軍神祭は、神功皇后征韓の折、又は、元寇の折に擬すとも、経津主命の征伐の姿をうつしたともいわれるが、この時、旗鉾から鉾竹、織幡から御幡、油田から袖馬をささげ、油田は、神燈供御の地であったといはれる。
ハタとは、布を織る機械、織物の事で、布を織るのを職とした人が、京都に住んでいた地名を太秦と呼んでいる。
麻績は、今の八本の地で、麻績部という 織物の職人のいた所で、昔の人が 養蚕の術を覚えたころ、桑を植えたのが、今の桑畑といはれ、桑畑、木内、白井は、最も古く人類が住んだ 貝塚が残っている。
この辺は、気候が温和で、桑樹の栽培、蚕児の飼育に適し、元正天皇の朝、両総地方から養蚕に熟した者を、東北諸州に文教、醍醐天皇 租庸調を定められると、下総は、麤絲国に列せられたのでも、古くから養蚕が発達したのが判る。
古語拾遺 神武章に、神武天皇の初年 天富命が 阿波斎部を率い、東国に沃壌の地を求めて 朝穀を播き、麻のよく生じた所を総の国、穀木のよく生じた所を結城、阿波斎部のいる所を 淡(後の安房)といったとあり、大同の頃から、総は、麻の古語として伝っている。建葉槌神も 倭文 を織りそめた 神だから名も高房と神の業を称え、宮地近い里に、織幡、幡鉾(幡は織で、字を借りたもので、古文書には 織服と書く) 蟲畑(畑も織) 小見(麻績)などの地も 絹に ゆかりがあり、織幡、旗鉾、虫幡、油田の地名や、神に お仕えした昔の姿が想像される。
香取の起源については、夏衣 香取(定家) 袖せませ 香取(資雅) の冠辞は、絹布によせて、往古、絹布部(かとりべ)の住んだ地なので、カトリといったとか、堅織がつまり 加止里 で、織物を ほめたともいはれ、昔、この辺特有の エダ草 といふ衣料原料が生えていたともいわれる。
(後略)
第四節 民話・伝説
(前略)
香取様伝説
昔のその昔、まだ草や木がお話ができたころ、香取の神様が南のほうから来た。
織幡の小高い所に立って四方を見わたすとみな従った。なくなって平石に葬ったが鹿島の見える香取神宮の所にまつった。明治の始めまで毎年神宮の神官が平石に来ておまつりしたそうだ。お田植祭に大きな傘に神田の名を書くがそれは織幡の古い田の名である。
神幸祭に織幡では神のそば近くに、ヒレホコとベニミハタをささげてお供するのは、このようなわけである。神のあかりをあげる油田では神馬をそなえ、一の鳥居、トリイバナ(鳥居鼻)、マアライ(馬洗)、バッケサキ(馬繫岬)がある。勅使がとまった大ねぎやかたあとがあり、近くにその寺のあともある。織幡では人形送りの行事があった。
第六節 民間信仰
一信仰仏
(前略)
月待塔
(前略)
織幡・旗鉾は、はとり部の住んだ地といい、軍神祭には、紅御旗・比礼鉾を捧げて供奉するが、初め、この地に在たといわれる。香取神宮と関係の深い、惣持院の本尊が、愛染明王であったことと、無縁であったろうか。
第七節 衣・食・住
(前略)
一衣について
古代のこの地は、その地名が麻の生産を示す「麻績郷」(和名抄)であったことを見ても、麻を衣料として使用したことが明らかである。ここで生産された麻は中央政府(平城・平安京の政庁)に調布として貢納されたものであるが、当然地域の人々の主な衣料としても使用されたはずである。日本では毛と綿は古くは生産も使用もされず、主として絹と麻(苧麻を含む)が使われ、絹は貴人や晴着に、麻は庶民の作業衣、平常着に専ら用いられた。ただ「布」といえば麻のことを意味するほどになっていたわけである。
絹は軟かくて光沢があり、保温もよく染色にも適していたが洗濯に弱く、産額も多くなかったから貴重品であった。麻は堅くて丈夫、染めにくいが、洗濯にたえ、美しくはないが大量に生産され、国民的衣料として大いに用いられた。
第八節 年中行事
(前略)
2 香取神宮供奉とお田植祭八神田
香取神宮の、行事の最たる軍神祭は、十三年目ごとの、午年の四月十四日・五日に、大祭が行われる。
明治八年再興第一回神幸軍神祭供奉列次に
次立 白御旗白丁二人 旗鉾村
次立 随身二員騎馬
次立 大御神輿 輿丁二十人綱取四人
次立 赤御旗白丁二人 織幡村
と、神輿の前後を、旗鉾・織幡が供奉しているのを、みてもいかに遇せられたかがわかる。
Webサイト
- 小見川中央地区 まちづくり計画
https://www.city.katori.lg.jp/living/ahiminkatsudo/shiminkyodo/omigawatyuuou.files/tyuuoukeikaku.pdf
書籍
- 『伝承を考える : 房総の民俗を起点として』平野 馨 著 1982年
- 『神里のあゆみ』郷土を研究する会 出版 1957年
- 『小見川町史 通史編』小見川町史編さん委員会 編 1991年
- 『房総の伝説』荒川 法勝 編 1975年
- 『香取郡誌』千葉県香取郡 編 1921年
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