佐倉市土浮(つちうき)の猿田彦神社
西印旛沼の東、北方向へ大きく張り出した舌状台地の突端に土浮(ツチウキ、現地の方はツッチュキとも)という集落があります(『印旛沼周遊記』小川 元 著 1988年)。地形的に「ここには何かある」と思い調べると、交通安全の神様を祀る猿田彦神社が鎮座していました。
本社は、半島地形の突端のどん詰まりにあり、人の往来もなく、聞こえるのはただ風と草木の擦れる音のみ。景色は見渡す限りの田んぼと対岸の里山。大変気持ちの良い神社です。
境内は半島突端のさらに小さな半島地形にあり、たくさんの樹々と鳥居、手水舎、拝殿、本殿のある立派な神社です。
今では想像もつきませんが、往時は佐倉~茨城/東北を結ぶ公道として重視され、「土浮の渡し」という渡し船や漁船、大きな財を成したという廻船問屋の船で賑わっていたようです。そのため、交通安全の神様である猿田彦命が祀られたのでしょう。
有名な「松虫姫伝説」のエピソードもある興味深い土地柄の神社です。
周囲は田んぼに囲まれ、対岸の里山も美しい
土浮の渡し(瀬戸の渡し)と祭神 猿田彦命
現在のような立派な道路や橋が整備されていない時代、沼の対岸への交通手段は渡し船が利用されていました。
佐倉藩は、沼周辺の各船渡場を積極的に保護していたようで、中でも土浮~瀬戸を渡す「土浮の渡し(瀬戸の渡し)」は、房総から常州(茨城県)、野州(栃木県)、奥州への公道として重視され、運用費のかなりの部分を負担していたそうです。
渡し船のほか、漁労のための小舟や商人の高瀬舟の往来も盛んで、土浮には高瀬舟をたくさん有し江戸との通商で莫大な財を築いた廻船問屋がいたそうです。ちなみに、その問屋は豪遊を続け散在し「印旛沼が干上がるか、〇〇衛門の土地が無くなるか」と村人に騒がれたそうです(『佐倉市史 巻三』、『同 民族編』)。
このような背景から、土浮に交通安全の神様である猿田彦命(サルタヒコノミコト)を祀る猿田彦神社を勧請したのは自然なことでしょう。命は天孫が高天原から葦原中国に天降る際に案内を務めた神様で、道祖神にも多く祀られています。印旛干拓前の当時は現在よりも遥かに沼幅が大きく波も強かったでしょうから、水上交通の安全を祈る神様の重要性が伺えます。
舌状台地が幅 200~300m ほどの田んぼにぐるりと覆われている。
左の方に猿田彦神社が見える。
古来よりこの高台から渡し船の往来を見ていたのだろうか。
前述の通り、江戸時代の土浮は何とも活気があったようですが、一方、対岸の瀬戸は全く逆のようです。瀬戸に着き坂を上がると、民家も人の往来もない寂しい原野が 10km 以上も続いたとあります(『佐倉市史料叢書 古今佐倉真佐子』P86)。
土浮の渡しは昭和35年(1960年)に廃止となったそうです。割と最近まで渡し船が現役で運航していたのには少し驚かされます。
土浮の伝承
土浮の名前の由来:松虫姫の物語
夢のお告げに従い、ハンセン病を治すために荻原を目指す松虫姫(聖武天皇の第三皇女)と一行ですが、目的地を目の前にして、沼の南岸から北岸へ渡る船がありません。そこで、行基僧正が観音様に祈りをささげると、沼底の土が浮かび上がり道ができ、無事渡ることができました(松虫寺)。土が浮かんだことから「土浮」と命名されたのでしょうか。
『手賀、印西を歩く:手賀沼印旛沼周辺の史跡めぐり』(佐々木 寛 著 2021年)にはこれを「モーゼの航海海割れ奇跡の日本版」と書いています。
一方、『佐倉市史 民族編』では、「事実は沼辺りの低湿地水田は真菰の枯死したのが積み重なってその底がしれない土質」と理由付けしています。まあ、この手の話は自分が楽しい方で捉えるのが良いのではないでしょうか。
松虫寺、松虫姫神社、姫の御廟については下記もご覧ください。
土浮のおわば様
あるお姫様が、身分違いの男を好きになったものの結婚が許されず、男と一緒に東国に逃げここ土浮の地に辿り着きました。
追手から逃れるため草むらに隠れた二人でしたが、咳をしてしまったため見つかりその場で殺されてしまいました。
その後、2人を哀れに思った村人が祠を作り風邪の神様として祀ったそうです。
おわば様が何を意味するのかは不明、皇族の姫様では?と伝えられているとのことです(『昔日佐倉拾遺録』)。
猿田彦神社の写真
鳥居、社殿、小祠
本殿・拝殿ともに、もとは茅葺、昭和27年に亜鉛版葺に改修、流造の本殿は19世紀前半の建築とのことです(『昔日佐倉拾遺録』)。
手前に小さな石灯篭が。
拝殿の窓ガラスの向こうに本殿が見えます
手前に先ほどより少し大きい石灯篭が
遠景写真
詳細情報
社号 | 猿田彦神社 |
ご祭神 | 猿田彦命 |
境内社 | |
由緒・歴史 | |
神紋 | |
本殿の向き | |
住所 | 佐倉市土浮306 |
その他 |