船橋市三山(みやま)の二宮神社(にのみやじんじゃ)の神社の概要


二宮神社(にのみやじんじゃ)は、創建年不詳、船橋市三山(みやま)に鎮座する神社です。
『延喜式』「神名帳」の「千葉郡 寒川神社」に比定される式内社で、明治期から終戦期まで郷社に列格していました。
祭神
祭神として次の神様が祀られています。
- 速須佐之男命(はやすさのおのみこと)
- 稲田比賣命(いなだひめのみこと)
- 大國主命(おおくにぬしのみこと)
- 藤原時平(ふじわらのときひら)
- 大雀命(おおささぎのみこと)
- 誉田別命(ほんだわけのみこと)
1910年(明治四三年)、千葉郡二宮村三山の次の社を本社へ合祀しました。
- 若宮八幡神社(大雀命)
- 摂社阿波八幡大神(誉田別命)
四機の指定文化財、下総三山の七年祭り
28基ある船橋市指定文化財のうち、実に下記4基が本社のもので、境内に設置されたそれぞれの説明書を見ながら参拝することもできます。
- 二宮神社社殿
- 齋藤その女等奉納句額
- 二宮神社の神楽
- 二宮神社のイチョウ
また、本社は千葉県指定文化財 無形民俗文化財「下総三山の七年祭り」を執り行う九つの神社の一つでもあります。
『成田名所図会』の二宮神社の図
『成田名所図会』(別名『成田参詣記』、1858年)は江戸から成田山新勝寺までの参詣路の名所を記した書物です。
その中で、当社が「三山明神社の図」として紹介されています。当時は「二宮神社」でなく、「三山明神社」と称していたようです。
池のある窪地、二之鳥居、その後のイチョウ、拝殿、本殿、神楽殿などが、現在も同じ配置で残されており、とても興味深いです。

画:長谷川 雪堤
左:二宮神社、右:神宮寺

写真図鑑
社殿

「市指定文化財(有形・構造物)二宮神社社殿」
拝殿




正面奥に二之鳥居が、その右に市指定文化財のイチョウが見える

千葉氏との関連があるのでしょうか?




本殿



彫刻の画は中国の故事由来するそうです



彫刻の画は中国の故事由来するそうです






鳥居
一之鳥居と周辺







二之鳥居




二之鳥居脇の船橋市指定文化財 天然記念物「二宮神社のイチョウ」


狛犬
一対目の狛犬

頭に角?が生えている


こちらは頭頂が凹んでいる

二対目の狛犬




境内社(境外社)

敷地外に出て東の道から参拝できる




神楽殿


この手の彫刻を目の前で見られるのはかなり貴重なのでびっくりした

社務所、神輿庫






その他


一之鳥居と二之鳥居の間の窪地、御手洗之泉(みたらしのいけ)
一之鳥居を降り窪地を進むと、右前にコンクリートで囲まれた小さな池「御手洗之泉(みたらしのいけ)」があります。泉脇の石碑には、ここから湧き出た水をかつては農耕に利用していたと記述があります。書籍『房総の古社(1975年)』によると、ここから流れ出た水は「水草の茂った相当広い池を形成し、北方へ迂回してもう少しつづいている。この水流の地域を『ミタラシ』といっている。」と記述があります。神職の方曰く、池があった箇所は現在、駐車場になっているそうです。

右方向上に一之鳥居が、左方向上に二之鳥居が屹立している

現在はすっかり水量が減ってしまったそうです



何かいます…

駐車場
かなり広い駐車場です。かつては「水草の茂った相当広い池」だったそうです。



本殿裏の森
境外北から見た鎮守の森。本殿の裏に小さな台地のようなものが見えます。古墳でしょうか?


参拝順路
南の一之鳥居からの参拝

貴重な鎮守の森の中に二宮神社が鎮座しています



目線の先に、二之鳥居と拝殿が見えます



窪地の中ほど、赤い橋の下に、水路が横切っています






窪地の奥に一之鳥居が見えます


駐車場はこの右手です


東の入り口からの参拝

左の石碑はGoogle で「遠近庵三市の碑」とあります



詳細情報
| 社号 | 二宮神社 |
| ご祭神 | 速須佐之男命(はやすさのおのみこと)、稲田比賣命(いなだひめのみこと)、大國主命(おおくにぬしのみこと)、藤原時平(ふじわらのときひら)、大雀命(おおささぎのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと) |
| 境内社 | |
| 由緒・歴史 | |
| 神紋 | |
| 住所 | 船橋市三山5-20-1 |
| その他 |
参考
下記を参考にさせていただきました。
抜粋
二宮神社(にのみやじんじゃ)(通称 明神様) 旧郷社
祭神
速須佐之男命(はやすさのおのみこと)稲田比賣命(いなだひめのみこと)大國主命(おおくにぬしのみこと)藤原時平(ふじわらのときひら)大雀命(おおささぎのみこと)誉田別命(ほんだわけのみこと)
由緒沿革
弘仁年間、嵯峨天皇の勅創。古来、寒川神社、二宮大神と称していた。治承四年藤原師経が当国へ左遷された折、藤原時平公を相殿に合祀した。文安二年、馬加の城主千葉康胤の奥方が懐妊一一ヵ月になっても、出産の模様がなく、康胤は心配して二宮神社他畑・武石・馬加の神職に、馬加の磯辺において安産祈願を命じた。執行後間もなく無事出産されたことにより、康胤は倒礼の祭典を近郷二一カ村の総社二宮神社において盛大に執行した。これが七年大祭の起源である。現在丑年・未年の七年目毎に、当社他八神社の神興を集めて大祭を行なっている。慶長年中、東照宮が上総
国東金へ御成りの際参詣され、御墨印を寄せられ、二代将軍秀忠公より朱印の寄附があり、三代将軍家光公より御朱印を以って、下総国千葉郡三山村において神領一〇石の奉献あり、貞享二年六月一一日五代将軍綱吉公より社領の寄附等があった。明治四三年一二月一六日、千葉郡二宮村三山字北ノ海道の無格社若宮八幡神社、同所字西庭の摂社阿波八幡大神を本社へ合祀した。
千葉郡三山村ニアル、三山明神ナルベシ。(三山ハ、和名抄ノ山家郷ノ内ト見ユ)
寒川よりは三山村の方、立ちまさり、式内なるべく思はれる。
今、三山村にあり。三山明神といふ、蓋是也。
今、三山村に在り。三山明神と称す。蓋し、相模の寒川ノ社に祀る所と同じ神なり。
Webサイト
書籍
- 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
- 『三山の七年祭 : 二宮神社式年大祭 資料編』船橋市教育委員会社会教育課 編 1975




