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鷲神社│埼玉県さいたま市岩槻区小溝

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埼玉県さいたま市岩槻区小溝の鷲神社の概要

鷲神社は、創建年不詳、埼玉県さいたま市岩槻区小溝に鎮座する神社です。

当地・小溝の村は、平家の落武者の「中山和泉守」が土着し開いたといわれます。当社は、この「中山和泉守」が氏神として祀った神社といわれます。

小溝部落で最も古い村組が本村(ほんむら)で、当地は本村の鎮守です。

『風土記稿』に、「驚明神社村の鎮守なり、末社稲荷」と掲載されています。

祭神

祭神として次の神様が祀られています。

  • 不明

写真図鑑

社殿

境内社

基本情報

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

『埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉』抜粋

56 鷲神社

歴史
慈恩寺台地の東部に位置する小溝は、岩槻市郊外の農業地域の一角にある。この小溝の村は、「大感」の屋号を持つ中山昌幸家の先祖の中山和泉守がこの地に土着して開いたと伝えられ、当初はわずか八軒の小規模な村であったという。中山和泉守の人物像についての詳しい伝えはないが、平家の落武者であったといわれる。
当社は、この中山和泉守が氏神として祀った神社であるといわれている。その創建の時期についでは定かではないが、小溝は中世には太田荘に属していたことと、太田荘の総鎮守は驚宮町に鎮座する鷲宮神社で、その領内には鶯宮神社の分霊が多く祀られていることを考えるならぱ、当社もそうした分霊を祀る神社の一つであり、村の開発の時期や当社の創建の時期は、太田荘の開発の時期に重なると思われる。
江戸時代には小溝の開発も更に進み、化政期(一八〇四-三〇)には家数も五〇戸にまで増え、その地内は本村・新田・前島の三つの村組に分かれるようになった。当社は、そのうちの本村で祀っている神社で、『風土記稿』には「驚明神社村の鎮守なり、末社稲荷」と載っている。小溝では、実際は村組ごとに別々の神社を祀っており、村全体で祀る神社はないのであるが、本村が小溝の中で最も古い村組であるため、そこで祀る当社が村の鎮守として掲載されたのであろう。

(中略)

氏子
本村は、その名が示すように、小溝の中でも初めに開かれた地区であり、その草分けである中山昌幸家をはじめとした中山雄の旧家四軒と新井兵家の五軒は「旦那衆」と呼ばれ、当社の昔からの氏子であるといわれている。現在の氏子数は二五戸で、その中から三名の総代が選出されて神社運営を行い、家並み順で三戸ずつが一年交替で当番になって祭りの準備や境内の清掃を行っている。
この本村の中には、明治の神仏分離まで当社の別当を務めた長命寺もある。長命寺は、寺伝によれば当初は真言宗の庵室であったが、元
和四年(一六一八)に円識坊秀存が天台宗に改宗して一寺を建立し、長命院慈眼寺と号した。その後、いつのころからか長命寺と呼ばれるようになり、当社は延宝三年(一六七五)ごろまでその境内にあったという。四月十日に行われる十日念仏は、この長命寺の行事であり、本堂に僧が来て地元の参列者と共に念仏を唱え、会食をする。
既に述べたように、小溝全体で祀る鎮守はなく、本村では当社、新田では諏訪神社、前島では羽黒神社と、村組ごとに別々の神社を祀ってきた。明治の初めには前島の羽黒神社が村社になっているが、これは三社の中で最も境内が広かったことによると思われ、村社が決まったからといって従来の祀り方が変わったわけではなかった。そこで、本村が中心になって小溝全体で祀る神社を整えようとの動きが昭和の初めに起こり、前島の羽黒神社ではこれに応じたが、結局は新田の諏訪神社の反対によって実現には至らなかった。ちなみに小溝では、元目に三社の氏子が集まって行列を組み、大字内の神仏を巡拝する「お百度」という行事があるが、当社はその出発点になっている。

Webサイト

書籍

  • 『埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉』埼玉県神社庁神社調査団 編 1998年

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