館山市相浜(あいはま)の楫取神社(かんどりじんじゃ)の概要


楫取神社(かんどりじんじゃ)は、創建年不詳、宇豆毘古命(うづひこのみこと、うずひこのみこと)を祭神とする、館山市相浜に鎮座する神社です。
社名の「楫取(かんどり)」は「水先案内人」を意味し、祭神も神武天皇と天富命(あめのとみのみこと)の「水先案内人」を務めた神様です。
往昔は、「香取明神」※「神取明神」とも呼ばれていました。
- 当社は香取神宮の勧請ではありません。
「浪除神社」に合祀されるも現存?
1916年(大正五年)または1919年(大正八年)、当社「楫取神社」が、近隣に鎮座する日本武尊を祀る旧村社「浪除神社(なみよけじんじゃ)」に合祀され、両社を合わせた「相濱神社(相浜神社、あいはまじんじゃ)」が創建されました。
一方、遷座から100年以上経過した現在も、当社には立派な鳥居と社殿が残っています。社殿、境内は綺麗に管理され、現在も地元の方に崇敬されているようです。
「宇豆毘古命(うづひこのみこと、うずひこのみこと)」とは?
神武天皇東征の際、海上進軍の航海士をした国神で、建国後、功労者として倭国造に任命されました。「珍彦(うずひこ)」「椎根津彦(しいねつひこ)」「槁根津日子(さおねつひこ)」などとも呼ばれます。
当地には、天富命(あめのとみのみこと)に従って来られたと伝わっています(社家藤森氏資料)。その際、海人の波多氏に伴い阿波から同行、造船や紀州漁法を指導したとも言われています(館山市立博物館)。
ちなみに、千葉県内でこの神様を祀る社を筆者はまだ見たことがありません。
「楫取」とは?
「楫・梶・舵・檝(かじ)」は船を進めるための道具のことで、「楫取(かんどり)」は「舵取り」「水先案内人」を意味します。
安房忌部の故郷、四国吉野川では、現在も鮎釣り用に「カンドリ舟(楫取舟)」なる木製の子舟が使われているそうです。
当社近隣では、「楫取」が転じたと思われる、当地旧名「相浜小字香取」のほか、周辺地名に「大神宮香取」「神取浦」が見られます(当社は往昔、「香取明神」「神取明神」と呼ばれていたそうです)。
また、『日本書紀』における香取神宮 祭神の経津主神に関する記述「この神は今は東国檝取之地にいる」に、「檝取」の文字が見えます。
その他、瀬戸内海や日本海側にも「楫取」に由来する地名が複数見られ、忌部文化研究会の林 博章 氏は、これらの地名を巡ることで阿波から房総半島への渡来ルートが検証できる、と指摘されています。下記は、当サイト筆者が作った、「楫取」関連の地名等をプロットした地図です。
創建・祭神に関する参考情報
相濱神社(あいはまじんじゃ) 旧指定村社
祭神
日本武尊(たまとたけるのみこと)宇豆彦命(うずひこのみこと)
由緒沿革
当社は旧浪除神社と揖取神社の二社を一社に合祀した神社である。浪除神社の御祭神は日本武尊で第二二代清寧天皇の辛酉に勧請された。命は第一二代景行天皇の皇子で、東西の地をお穏かにされ国のためにご功績の多い神、楫取神社の御祭神は宇豆彦命で天富命に従ってこの地に渡り漁業を主として指導され、現在も漁業の地として栄えている。
神代下
(前略)
天神が、経津主神と武甕槌神に葦原中国を平定させようとした。二神が「天に悪神、天津甕星(天香香背男)がいます。この神を先に倒したあとに、葦原中国に降りたい」と言った。この時、斎主神を斎之大人と呼び、この神は今は東国檝取之地にいる。
四、安房坐神の鎮座地に関する伝説
三、霊地吾谷山─館山市大神宮宮ノ谷
(前略)
第6図の承応三年(一六五四)の絵図の右上の方に「神取明神」とあり、その明神の西の海は「神取補」と書かれ、岩穂の多い「かけ海」(崖海)と「かけ海」の間にはさまれた「すな間」の海岸にあることが読みとれる。
この絵図にある「神取明神」は、天宮命に従ってこの地に来られたという、海に詳しい宇豆毘古命(槁根津日子命)を祭神とする楫取神社の別社号であると思われる。大正五年九月楫取神社は、館山市宮崎地区相浜(あいはま)二斗田の日本武尊を祭神とする旧村社浪除神社に合祀され、新しい「相濱神社」として祀られている。
香取神社こと楫取神社の旧跡は、相浜小宇香取地籍にあるが、道路を隔てて東側は伝説に残っている大神宮の「香取」に接しており、この相浜の香取は、大神宮香取の新田的なものと思われる。
相浜から布良へと集落の中を通っている旧道に沿った海側に、「楫取神社旧蹟」の石の標柱があり、大正六年と刻んでいる。そこに南北約二五メートル(目測)東西約四〇メートル(日)ばかりの空地があり、その南東の間に小詞がある。小祠のブロックの玉垣には「奉納 相浜青年團 昭和三十八年三月吉日」とある。小祠の方には紀年はない。海抜約一九メートル(読図・目測)といった位置にある。小祠の前には、木の鳥居とセメントの幟框が二本立っている。空地はわずか海側に傾き、その末端は元来数メートル(二─三メートル)の段丘崖でおわっていたもののようにみえるが、宅地などで切りくずしてよくわからない。小祠は北西海側を向いている。(後略)
五、安房神社の歴史地理学的環境
三、江戸時代の安房神社とその周辺
(前略)
江戸時代以来感満寺と同一境内に浪除神社が祀られていたようであるが、明治初年の神仏分離以後、感満寺はこの浪除神社となり、その後相浜小字香取にあった楫取神社(香取明神)を合祀し、相浜神社という称号に変っている。(後略)
『安房国式内社に関する歴史地理学的研究-6-安房郡安房坐神社について』
森谷 ひろみ 千葉大学教養部研究報告 A / 千葉大学教養部 編 (8) p1-84,図1枚, 1975
写真図鑑
社殿、鳥居



社殿




境内風景


参拝順路

右に当社が鎮座している

左に社殿が見える
基本情報
社号 | 楫取神社 |
ご祭神 | 宇豆毘古命(うづひこのみこと、うずひこのみこと) |
境内社 | |
住所 | 館山市相浜280-37 |
その他 | ■館山市立博物館 相濱神社 http://history.hanaumikaidou.com/archives/14290 ■館山市立博物館 忌部の足跡を訪ねて http://history.hanaumikaidou.com/archives/5696 |
参考
上記のWeb サイトのほかに、下記を参考にさせていただきました。
- 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
- 『日本各地を開拓した阿波忌部の足跡 : 古の『古語拾遺』の記憶. 安房国編』林 博章 編著 2006年
- 『安房国式内社に関する歴史地理学的研究-6-安房郡安房坐神社について』森谷 ひろみ 千葉大学教養部研究報告 A / 千葉大学教養部 編 (8) p1-84,図1枚, 1975
- 『式内社の歴史地理学的研究 : 安房国・伊豆国三宅島の場合』森谷恵 出版、森谷ひろみ 著 1977年4月