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「織幡」は「千葉」のまほろば?│香取市織幡

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「織幡」と古代の神々

「香取神宮」の南南東3.5kmほどに、「織幡(おりはた)」(現 香取市織幡)という集落があります。

一見、神宮と深い関わりのなさそうな地域ですが、神宮創建以前、「経津主命(ふつぬしのみこと)」が当地を中心に四方を治めたという逸話が残っています。

「織幡」周辺に関する資料が乏しく現在調査中ですが、ここでは備忘録として、現在わかっている二つの書物の内容について触れていきます。

「織幡」および近隣地名

まずは、「織幡」近隣の地名を見ていきましょう。織物、特に絹布にゆかりのある地名がたくさん残っています。

誌史『神里のあゆみ』

「神里村」(旧 香取郡神里村)の地方誌史『神里のあゆみ』に、「経津主命」の降臨と、「香取神宮」の創建について、次のような内容が記されています。

「経津主命」の降臨と統治

当時の香取の住民は、木製・石製武器で獣を捕えるような生活をしていました。

ここに、天照大神の命(めい)を受けた経津主命が次のルートを通って現れました。

得香(成田市の「取香」か?)

馬乗里(まじょうり)(成田市)

旗鉾(香取市)

左の青スポット:取香、
中央の青スポット:馬乗里、
右の赤スポット群:織幡・旗鉾地区の関連場所
上の黒スポット:香取神宮

命は、「旗鉾」(香取市)の西北端にある高台から「常陸」の方を望みました。この地は「トメ塚」(後述)と呼ばれ、現在でも不浄を忌むと言われます。

原住民はみな、命に従ったため、命は「トメ塚」のやや西方の「妙見堂」で四方を治めました。

  • 「トメ塚」の位置は判然としません。

「経津主命」の逝去と「香取神宮」創建

「経津主命」が亡くなると、「織幡字別所」の「平石」に葬られました。

  • 「平石」は香取市の「虫幡」集落にあると思われますが、位置は判然としません。。

命の「武甕槌命の、常陸の見える地」をという遺志により、御幣が「香取」に移されました。この地は、大江を挟んで関門のようであり、天然の要地だったからでしょう。従う者が、「織幡」から七十三人、「油田」「新福寺」から一人ずつ、そして「油田」から神馬が捧げられたため、この辺は急に寂しくなったそうです。

左上:香取神宮
中央下:織幡・虫幡地区の関連場所

他の文献では記されない貴重な伝承

「香取神宮」関連の資料はいくつも見てきましたが、

  • 「経津主命」は「トメ塚」近隣の「妙見堂」を拠点に開拓(弥生化?)を行った
  • 命は「平石」という場所に葬られた。
  • 遺言により、常陸の見える場所へ御幣が移された。

という内容は初めて見ました。

①の「トメ塚」(後述)、②の「平石」については、今後、現地調査をしようと思います。

③に関し、「香取神宮」の現鎮座地から常陸の地を見ることはできません。命の御幣が祀られたのは、「鹿島の森を一望に見はるかし風光絶佳」(『千葉県神社名鑑』)とされる「側高神社」でしょうか?

郷土誌『房総の伝説』

『房総の伝説』(荒川 法勝)という書籍に、「星塚の物語<佐原市>」という、当地を舞台に「香々背男」「建葉槌」「経津主」「武甕槌」の登場するとんでもない伝承が掲載されています。

地名の載る箇所を抜粋させていただきます。

「星塚の物語<佐原市>」の地名が載る箇所

  • 地名には下線を引いてある

この楫取(かとり)の郷は平和であり、安是の海の貝や魚は夥しく、森の果樹は夕日より赤く、るいるいと熟れていた。

香々背男は、トメ塚に登るのが好きであった。小高い丘のトメ塚から見下ろすと、安是ノ海の彼方の常陸まで、よく眺められた。

経津主と、建葉槌が、トメ塚に登った。大鹿は、二神(香々背男と武甕槌)を乗せると、ザブザブと、銀波の安是ノ海を泳ぎ始めた。向こうの島に鹿の影が、だんだんと吸い込まれていく。
(中略)
その後、武甕槌命は鹿島の地に居着き、そして、香々背男の行方は、杳として知れなかったという。

どこまでが史実か?

是非、美しいアニメーション映画にしてほしい内容ですが、どの部分が史実かは不明です。誌史『神里のあゆみ』とは、次の箇所が一致しています(情報ソースは同じかもしれませんが)。

  • 「織幡」近隣に「経津主命」が降臨し、当地を開拓
  • 「トメ塚」なる高台があり、「常陸」を見渡せる
余談

『房総の伝説』という書籍は、作者別に三種類があるようです。

今回参考にさせいただいたのは、荒川 法勝 氏のお名前だけがある、左のもののになります。

結語

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

『神里のあゆみ』抜粋

二、口碑と伝説

(中略)

(2)香取様のゆかり
(前略)
木や石で作ったもので、けものを捕へたり、単調な生活を過した原住民に、大きな変化が起こった。経津主命が、天照大神の旨をうけてお出でになったのだ。経津主命は、得香、馬乗里を経て、旗鉾の西北端まで来られ、その高い地点で遥かに、常陸の方まで望まれたという。この地点を、トメ塚といって、今でも不浄を忌むといはれる。
住民は、皆 従ったので、経津主命は、トメ塚の やや西方の 妙見堂で 四方を治められたが、今も付近の松原というところで古い遺物が掘り出される。なくなられて、織幡の 字別所の 平石の所へ葬り、武甕槌命の、常陸の見える地をという遺志により、御幣を、香取に移した。地勢も、大江を挟んで、関門のようで、その上、天然の要地であったからである。従う者が、織幡から、七十三人、油田、新福寺から一人宛と、油田から 神馬がささげられた。そのために、この辺が、急にさびしくなったそうである。
(後略)

(3)人類のあけぼの
(前略)
軍神祭は、神功皇后征韓の折、又は、元寇の折に擬すとも、経津主命の征伐の姿をうつしたともいわれるが、この時、旗鉾から鉾竹、織幡から御幡、油田から袖馬をささげ、油田は、神燈供御の地であったといはれる。
ハタとは、布を織る機械、織物の事で、布を織るのを職とした人が、京都に住んでいた地名を太秦と呼んでいる。
麻績は、今の八本の地で、麻績部という 織物の職人のいた所で、昔の人が 養蚕の術を覚えたころ、桑を植えたのが、今の桑畑といはれ、桑畑、木内、白井は、最も古く人類が住んだ 貝塚が残っている。
この辺は、気候が温和で、桑樹の栽培、蚕児の飼育に適し、元正天皇の朝、両総地方から養蚕に熟した者を、東北諸州に文教、醍醐天皇 租庸調を定められると、下総は、麤絲国に列せられたのでも、古くから養蚕が発達したのが判る。
古語拾遺 神武章に、神武天皇の初年 天富命が 阿波斎部を率い、東国に沃壌の地を求めて 朝穀を播き、麻のよく生じた所を総の国、穀木のよく生じた所を結城、阿波斎部のいる所を 淡(後の安房)といったとあり、大同の頃から、総は、麻の古語として伝っている。建葉槌神も 倭文 を織りそめた 神だから名も高房と神の業を称え、宮地近い里に、織幡、幡鉾(幡は織で、字を借りたもので、古文書には 織服と書く) 蟲畑(畑も織) 小見(麻績)などの地も 絹に ゆかりがあり、織幡、旗鉾、虫幡、油田の地名や、神に お仕えした昔の姿が想像される。
香取の起源については、夏衣 香取(定家) 袖せませ 香取(資雅) の冠辞は、絹布によせて、往古、絹布部(かとりべ)の住んだ地なので、カトリといったとか、堅織がつまり 加止里 で、織物を ほめたともいはれ、昔、この辺特有の エダ草 といふ衣料原料が生えていたともいわれる。
(後略)

Webサイト

書籍

  • 『神里のあゆみ』郷土を研究する会 出版 1957年
  • 『房総の伝説』荒川 法勝 編 1975年
  • 『香取郡誌』千葉県香取郡 編 1921年

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