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大宮氷川神社 – 創建の考察│埼玉県さいたま市大宮区高鼻町

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目次

大宮氷川神社の創建の考察

縄文時代から弥生時代にかけて人々が定住した土地では、後に朝廷や有力豪族によって新たな祭神が迎えられ、従来の信仰と重なり合いながら祭祀が重層化したと考えられる例があります。その痕跡は、神社の社名や祭神、境内社、由緒などに残されていることも少なくありません。

「大宮氷川神社」にも同様の変遷があった可能性が指摘されています。本稿では、地形や祭祀、伝承などを手がかりに、その成立の過程を探ってみたいと思います。

1. 古代の信仰

1-1. 古代の信仰 ─ 蛇の池・神池・見沼の信仰

往古、さいたま市から川口市にかけて、「見沼(三沼)」と呼ばれる「コ」または「y」の字型の巨大な湖が存在していました。江戸期に干拓され現在は消失してしまいましたが、現在もさいたま市の「見沼区」の名称にその名残が見えます。

当社「大宮氷川神社」の所在する「高鼻」集落は、「見沼」に突き出た小さな半島の根元にあたります。社殿の西側には湧水があり、ここからこんこんと湧き出た水は境内を反時計回りにぐるりと半周し、「見沼」に注いでいたと考えられます。この名残が、境内の西側にある湧水池「蛇の池」と境内南側の「神池」です。

このように、当社は湧き水や湖との縁がとても深い地に鎮座するため、朝廷の配下に収まるまえは、「蛇の池」「神池」「見沼」を祀る信仰があった可能性が指摘されています。このことはさまざまな文献や資料に語られており、代表的な資料を以下に列挙します。

大宮氷川神社 境内説明書 抜粋

蛇の池

この神秘的な湧水があった為に、この地に当社が鎮座したとも伝えられ氷川神社発祥の地と云われる。

『武蔵国式内社の歴史地理』抜粋

「ヒカハ」の「ヒ」は、やはり「氷」の意である。(中略)「カハ」の意は、泉または池、あるいは細い水流が広いところにたたえ、よどんでいる場所などを称したのである。(中略)

当社に祀られたのは、カハそのもの、すなわち池を神聖視して、これを対象として祭祀が行われたということが考えられる。(中略)

『埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉』抜粋

古代の氷川神の祭祀は、鎮座地の湧水とかかわりが深く、(中略)谷津に座す水を司る神であったと考えられる。

1-2. 古代の信仰 ─ 荒脛巾(アラハバキ)信仰

境内社「門客人神社」の旧社名は「荒脛巾神社」

門客人神社

当社の境内社に、「稲田姫命」の御親神を祀る「門客人神社(かどのまろうどじんじゃ、もんきゃくじん-)」があります。この神社は、江戸時代初頭のドタバタにより社名が改称されるまでは「荒脛巾神社(あらはばきじんじゃ)」「荒脛巾社」と称していました。祭神は不明ですが、その社名から恐らく「アラハバキ」の神様を祀っていたものと推察されます。

境内社の「門客人神社(かどのまろうどじんじゃ・もんきゃくじん-)」は、現在は「稲田姫命」の御親神である「足摩乳命(あしなづちのみこと)」「手摩乳命(てなづち-)」を祀っています。しかし、江戸時代初頭に社名が改められる以前は、「荒脛巾神社(あらはばきじんじゃ)」「荒脛巾社」と称していました。祭神は明らかではありませんが、その社名から、アラハバキ神を祀っていた可能性が考えられます。

本宮の東側に鎮座する「門客人神社」

江戸時代の氷川神社は、「男体社(本宮)」「女体社」「簸王子社(ひのおうじしゃ)」の三社に分かれており、「荒脛巾社」は本宮である男体社の東側に鎮座していました。参拝者は神池を渡って境内へ入り、本宮へ向かう途中で「荒脛巾社」の前を通る配置となっていました。

その後、三社は現在の一つの本殿へ統合されましたが、「門客人神社」は現在も本殿東側に鎮座しています。

江戸時代の境内の配置図のイメージ

地主神であった可能性

古くから聖地とされた場所に、新たな神様が祀られる際、もともとの地主神がその傍らに併せて祀られる例があります。たとえば「鹿島神宮」では、本殿左後方の「三笠社」に「山の神」が祀られています。

こうした例にならえば、「荒脛巾神社」もまた、「大宮氷川神社」創建以前からこの地に祀られていた地主神として、本宮の傍らに残された可能性があります。

2. 氷川神社の創建に関する伝承

孝昭天皇三年、出雲国杵築大社を遷して氷川神社の神号を賜る

『氷川大宮縁起』および『新編武蔵風土記稿』には、第五代孝昭天皇三年四月未の日、出雲国氷川上に鎮座する「杵築大社」を遷し、「氷川神社」の神号を賜ったと伝えられています。また、「氷川」の社名は、出雲国を流れる大河「斐伊川(肥河)」に由来するとも伝えられています。この創建伝承は、現在も「大宮氷川神社」の由緒として受け継がれています。

一方、この創建伝承がいつ成立したものかについては、現時点では明らかではありません。埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉』では、「大宮氷川神社」の孝昭天皇の御代創建説、および「氷川女体神社」「中氷川神社」の崇神天皇の御代創建説について、いずれも確かな創建年代とみなすことは難しいと指摘しています。

3. 武蔵国造と氷川神社

3-1. 成務天皇期の武蔵国造

『先代旧事本紀』巻十「国造本紀」によれば、第十三代成務天皇(第十二代景行天皇の御代とする説もある)の頃、出雲系の「兄多毛比命(えたけひのみこと・えたもひのみこと)」が朝廷より武蔵国造に任じられたと伝えられています。

一方、初代武蔵国造は「兄多毛比命」ではなく、その子の「伊狭知直(いさちのあたえ)」であったとする説もあります。

<系譜>天穂日命 → 武夷鳥命(たけひなとり-)→ 出雲臣系 → 兄多毛比命(大多毛比と同一?) → 伊狭知直

また、『高橋氏文』には、景行天皇が上総国の浮島宮に滞在した際、「無邪志国造の上祖・大多毛比」が奉仕したことが記されています。この「大多毛比(おおたけひ?)」を「兄多毛比(えたけひ)」と同一人物とみる説もあります。

これらの伝承から、武蔵国造は出雲系の系譜を伝えていたことがうかがえます。また、「大宮氷川神社」にも出雲との関わりを伝える創建伝承が残されています。しかし、武蔵国造の祖・「兄多毛比命」と、「大宮氷川神社」の創建とを直接結び付ける史料は、現時点では確認されていません。

3-2. 天平期の奉斎氏族

奈良時代になると、氷川神社の祭祀には足立郡を本拠とした丈部氏が関わっていたと考えられています。

『続日本紀』によれば、武蔵国国造の「丈部直不破麻呂」は、「恵美押勝の乱」の鎮圧で軍功を挙げ、天平宝字八年(764)十月七日に外従五位下に叙されています。

そしてその二年後の天平神護二年(766)に、「大宮氷川神社」は朝廷から封戸の寄進を受けています。

このことから、当時、武蔵国内で有力な氏族であった丈部氏が、氷川神社の祭祀に深く関与していた可能性が指摘されています。

4. 平安期の朝廷から見た「大宮氷川神社」

「大宮氷川神社」は、平安時代になると朝廷から厚い崇敬を受けた神社として史料にたびたび登場します。

『三代実録』には、貞観元年(859)から元慶2年(878)までの19年間に、神階が従五位下から正四位上まで相次いで五階級も昇っています。短期間にこれほど急速な昇叙を受けたことから、当時の朝廷が「大宮氷川神社」を武蔵国の重要な神社として高く評価していたことがうかがえます。

その後、延長5年(927)に成立した『延喜式』神名帳には、氷川神社は武蔵国を代表する名神大社として記載されています。また、祭神は「一座」とされており、少なくとも平安時代の朝廷は、氷川神社を一柱の神を祀る神社として認識していたことがわかります。

一方、江戸時代には「男体社」「女体社」「簸王子社」の三社からなる祭祀形態がみられることから、平安時代と江戸時代とでは祭神の構成や祭祀のあり方に変化があった可能性が考えられます。

5. 江戸時代の祭祀

江戸時代の氷川神社では、男体宮・女体宮・簸(火)王子宮の三社が、それぞれの社家によって奉斎されていました。

また、現在の「門客人神社」は、もとは「荒脛巾神社(荒脛巾社)」と称していましたが、江戸時代初期に「門客人神社」へ改称されたと伝えられています。『新編武蔵風土記稿』によれば、この改称は出雲国杵築大社の摂社「門客人社」にならったもので、現在の祭神である足摩乳命・手摩乳命も、この頃に配祀されたとされています。


基本情報

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

新編武蔵風土記稿』抜粋

P13

氷川神社

(前略)孝昭帝ノ御宇勅願トシテ出雲國氷ノ川上ニ鎭座セル杵築大社ヲウツ祀リシ故氷川神社ノ神號ヲ賜ハレリト武蔵風土記ニ

孝昭天皇の御代、勅願をして、出雲国氷ノ川上に鎮座する杵築大社(出雲大社)をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜(たまわ)る

参考:新編武蔵風土記稿 巻之151 足立郡之17,巻之152 足立郡之18,巻之153 足立郡之19,巻之154 足立郡之20

P16

簸王子社

三島居ヲ入テ正面ニアリ當社ハ神主角井監物司トレリ祭神ハ大己貴命ト云一節ニ軻遇突智命ナリトイヘト前ニモ記ス如ク出雲國簸ノ川上ニ鎭座セル杵築社テ寫シテ氷川明神ノ號ヲ勅許セラレル由傳フレハ恐クハ大己貴命ナル(中略)

摂社 門客人社

男體社ノ東ニアリ祭神ハ豊磐憲命櫛磐應命門客人社ノニ座ニテ古ハ荒脛巾神社ト號セシテ氷川内記神職タリシ時神祗伯吉田家へ告シテ門客人社ト改號シ手摩乳脚摩乳二座ヲ配祀スト云按ニ出雲國杵築ノ摂社ニ門客人社ト云モノ二宇アリテ東ハ櫛磐間戸命西ハ豐盤間戸命ヲ祀ル由ナレハ門客人號ハ全クコレニモトツキシナラン又脚摩乳手摩乳ノ二神ハ同所夭前社ノ祭神ナレハ爰ヘ配祀セシナルヘシコレ等ニ據テモ當所氷川社ノ簸川上杵築社ヲ移シ祀リシコト証スヘシ

参考:新編武蔵風土記稿 巻之151 足立郡之17,巻之152 足立郡之18,巻之153 足立郡之19,巻之154 足立郡之20

『武蔵国式内社の歴史地理』抜粋

P60

次に、武蔵国造の父祖が、前住民たちにより神聖視されていたヒカハの地に、その氏神を祭ったものとして、もともとその氏神というのは、どのような神であったろうかという問題を考えてみたい。
 氷川神社の現在の祭神は、須佐之男命(スサノオノミコト)、大己貴命(オオナムチノミコト)、稲田姫の三神となっている。この点は、江戸時代においても同様であるが、その時代には今日とちがって、各祭神はそれぞれ別々の社殿に祀られてあった。神橋を渡って、左手にあるのを男躰社と称して、須佐之男命を祭神とし、右手にあるのを女體宮と称して、稲田姫を祭神とし、中央の奥にあるのを簸の王子社と称して、大己貴命を祭神とした。なほの王子社の祭神については、一説には、大己貴命ではなくて、カグツチノ命であると伝えている。
 右の三社につき、新編武蔵風土記稿は次のように記している。
「さて当所(氷川神社)三社の次第につきて、昔より異論あり、あるいは当社大己貴命本体にして、男躰女躰は彼父母の神なれば、摂社に祀りしものといい、あるいはいふ、しかはあらず男躰素戔嗚尊本体にして、簸王子は火神軻遇突智命(カグツチノミコト)を祀りて、大己貴命にはあらず、よりて当社と女體とは摂社なりと。此事争論決しがたくて、元祿十二年遂に公訴となりしとき、同じき九月寺社奉行戸田能登守・永井伊賀守・井上大和守等が判にて、双方明証なきを以て、この後三社同格として、甲乙の次第あるべからず、且神主の次序は家督の新古を以って定むべしとの下知ありしとなり云々」
 延喜式の神名帳では、氷川神社は一座となっているから、もともと祭神は一柱であったわけで、同社に三神が祭られるようになったのは、後世のことである。それでは氷川神社の本来の祭神は、誰れであったのだろうか。(後略)

『埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉』

P286

45 氷川神社 ひかわじんじゃ

歴史
(前略)
創立は、角井惟臣(つのいこれおみ)の記した「氷川大宮縁起」や『風土記稿』に、第五代孝昭 天皇の御代三年四月未の日、出雲国、氷の川上に鎮座する杵築大社を遷して氷川神社の神号を賜ると伝える。氷川は、出雲国の大河である肥河(斐伊川)にちなむものといわれる。
祭神は、出雲国の祖神である須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の三柱である。神紋は八雲紋で、これは須佐之男命の御神詠「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」に由来する。神紋の八雲の中には、見沼の水草が二葉添えられている。

(中略)

古代の奉斎氏族は、足立郡を地盤とした丈部氏が関与している。なかでも丈部直不破麻呂は、『続日本紀』によると恵美押勝の乱鎮圧の軍功により、天平宝字八年(七六四)十月七日外従五位下に叙されている。当社が天平神護二年(七六六)朝廷より封戸の寄進を受けたことは、武蔵国内で勢力のある氏族丈部氏が祭祀を司っていたことを裏付けるものである。

P287

(前略)社家は、江戸初期、まず男体社の岩井家、女体社の角井家、簸王子社の内倉家、門客人神社(荒脛巾社)の金杉家の四家があり、祭祀は各社で行っている。このうち金杉家は「延宝七年裁許状」によると、氷川と改姓、内記と名乗り、京都の吉田家より神道裁許状を受け、中世以来の「火剣祭」を清祓いに祭り替えをしたが、紀州徳川家の鷹場で補鳥したため改易されている。以後、祭祀は「元禄十二年裁許状」により年番神主制とされ、三社・三社家同格と定められている。

大宮市史 第3巻 中 (近世編)

一、宗教
1 近世の神社と寺院
(1)氷川神社

(前略)

イ 社法・社格
氷川神社は、延喜式神名帳記載のとおり、本来一座(祭神については須佐之男尊他諸説あって明らかでない)であったが、いつの頃からか(少なくとも中世初頭から)男躰宮(須佐之男尊、合殿、伊弉諸導、大己貴命、日本武尊)女躰宮(稲田姫命、合、伊弉冉尊、天照大御神、三穂津姫命、弟橘媛命)、簸(火)王子宮(大己貴命、或いは火神軻遇突智神)の三社が県立し、それぞれ、大祝岩井家(第二巻)、小祝角井家(第二巻)、内倉家(現西角井家、往古「大宮」と称す)(第二巻)の三神主家(いずれも京都吉田家の支配をうけていた)が奉斎していた。
〔史料二]
氷川大宮祭神之事
(前略)往古以大己貴命為男体宮之御相殿、外三火王子之社無之、随身門ノ朱塗ナル事也、仏方盛大ナル時ハ仁王門ニナセシ事モアリト見タリ、門客人社ノ神躰ニ、仁王門/鉄仏ノ像アリシヲバ、氷川内記取出シ糖タル由玄伝也、荒歴市=御座ムシュ等ラナセル事今モ処々=見ナリ、此社ニ神主無リシヲ寿能原ノ城主潮田出羽守ノ家来金菖木氏、潮田滅亡後門客人社ノ社人望シ故、神主共モ何心ナク捨置シニ段々増長シ、金杉ラ改小室ト三又出水ト改後ニ御夢想ノ由ニテ氷川ト改メ、三神主同格ノヤウニ成配当ヲモ甘五石取(後略)
(東角井家文書)
右の史料によれば中世末期、寿能城主潮田出羽守の家来、金杉(金曽木)氏が潮田氏滅亡後門客人社の社人を望み金杉を改め小室といい、また出水と改め、後に、夢想の由によって氷川と改め、三神主と同格のようになった。従って近世初頭における氷川神社は、男躰宮、女躰宮、簸(火)王子宮、門客人社の四社が奉祭され、岩井、角井、内倉、金杉(後氷川と改む)の四神主がそれぞれ奉仕し、社領の配当を得ていたことが、天正二十年(一五九二)の「配当覚」(史料三)や、慶長九年(一六〇四)の「配当賞」(史料四)等によっても知ることができる。
(中略)
しかるに、門客人社を善済していた氷川内記は、龍文二年(一六六ニ、及び進宝四年(一六七六)に上京して、吉田家から神道裁許状(史料五)を得て推力をふるい、次に記すとおり従来の男躰宮をもって本社としていたことを改めて簸(火)王子宮を本社とすべく画策したが、送に実現するにはいたらなかった。
(中略)
これら四社の社格については、延宝七年(一六七九)の次の史料によると「一、氷川大明神者、男躰為本社之間第一ニ崇之尤候、近年氷川内記私を以火王子崇本社、男躰女躰疎ニ至之、新儀非分不可然事」とあり、男躰宮を本社としていたことがわかる。そして、「本社男躰者岩井主水、女躰者角井式部、火王子者内倉斎、門客人社者氷川内記、加右遂次第従先年守之由主水、式部、斎、申之、然上者社人之座順も順社之次第可然事」と座順も定め、更に「火劔祭之事、延宝四辰年、内記上京、吉田江望之、清祓ニ祭替之由伝授有之上者可為其通。但シ清祓伝授之社人無之間者中絶不苦候事」「附門客人社内記守之由雖中之、門客人社者一社之神主与難崇申之間、向後門客人社之社人令停止之三人之社家共可相斗之事」とあり、門客人社は一社の神と崇め難しとされ、従って同社の社人もまた認められなくなって、三社三社家となった。それ故に「一、当社之御朱印并修理料金之儀、三人之社家相対納之置、右之入用之節者、三人相談之上可相斗之事」とされた。
その後、氷川内記は「去冬於紀伊殿鷹鳥を採不届之仕方、依此令追放之処」とあるように紀州家の環場で鳥をとった故をもって改易され、上青木村(川口市)に追放されている。従って延宝七年の米川家廃絶後の社家は、岩井、角井、内の三家となった。(後略)

Webサイト

書籍

  • 『日本民俗学 〔第1-4〕 神事篇』中山太郎 著 昭和5
  • 『新編武蔵風土記稿 巻之151 足立郡之17,巻之152 足立郡之18,巻之153 足立郡之19,巻之154 足立郡之20』内務省地理局 明17年
  • 『新編武蔵風土記稿 巻之135 足立郡之1,巻之136 足立郡之2,巻之137 足立郡之3,巻之138 足立郡之4,巻之139 足立郡之5』内務省地理局 明17年
  • 『日本の神々 神社と聖地 11 関東』谷川 健一 編 1984年
  • 『埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉』埼玉県神社庁神社調査団 編 1998年
  • 『武蔵国式内社の歴史地理』菱沼勇 著 1966年

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