南房総市千倉町南朝夷の高家神社の概要
高家神社(高倍神社)(たかべじんじゃ)は、磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)(尊称 高倍神(たかべのかみ))、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、稲荷大神(いなりのおおかみ)を祭神とする、南房総市千倉町南朝夷(あさひな)に鎮座する神社です。
平安時代の『延喜式』神名帳に記載のある「安房国六座 朝夷郡四座 高家神社」の比定社の一つで、明治期から終戦期まで郷社に列格していました。
テレビで、神社の神主さんが魚をさばいているのを見たことがないでしょうか? あれは、この高家神社で行われている「包丁式」という儀式の様子です。当社は日本唯一の「料理」の神社として有名で、日本全国から食品メーカーや飲食業の方々が参拝に来られるそうです。
チーバくんのかかと付近、海岸線から少し入った小山の森を背に、正面に海を見つめる場所に鎮座しています。広い境内はとてもきれいに掃除、管理されており、自然の気持ち良さと明るさのバランスが調度良い、大変居心地の良い神社です。拝殿は、県内でも大変珍しい、なんと茅葺きの屋根ですので、是非こちらも注意深く観察しながら参拝しましょう。
料理と発酵の神様を祭る唯一の神社
高家神社の主祭神の一柱 磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)(別名 高倍神)は、料理と発酵調味料を司る神様です。日本にはたくさんの神社がありますが、「料理」を祀る神社は当社だけだそうです。
当社は、一切手を触れることなく、包丁とまな箸で、鯉、真鯛、真魚堅(まながつお)をさばく儀式「包丁式」を執り行っています(毎年5月17日、10月17日、11月23日)。
料理の神様ということで、近隣住民だけでなく、全国の食品会社や飲食業の方々の崇敬が厚いそうです。なかでも、ヒゲタしょうゆは、「高倍」という醤油を醸造、これを当社に奉納するほか、銚子工場に当社の分霊を祀っているそうです(→ ヒゲタしょうゆ「高倍」)。
筆者行きつけの千葉市の居酒屋さんにも置いてあった。
参拝の際に購入したお守りを渡したところとても喜ばれた。
さすが料理の神様、境内には、役目を終えた包丁を治める「包丁奉納殿」や「包丁塚」があります。他の神社では、見たことがありません。
祭神 磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)とは?
当社祭神の一柱、磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)は、第8代 孝元天皇の孫にあたる人物で、第12代景行天皇(ヤマトタケルの父)に仕えました。
六雁命が66歳の時、亡き皇子 倭建命(やまとたけるのみこと)を偲んだ景行天皇が皇子の平定した国々を巡幸するのですが、六雁命もこれに随従しましす一行が安房勝山を訪れた際、命は、地元で獲れた白蛤(はまぐり)と堅魚(かつお)の膾(なます)で天皇の舌を楽しませます。この功により、六雁命は、宮中の食膳を司る「膳大伴部」(かしわでのおおともべ)の役を賜り、以後、この職は六雁命の子孫が担当することになります(命はこの時、若狭国と安房国の長にも任命されました)。
都に帰り、膳職(かしわでのつかさ)の長となった命は、72歳で亡くなります。悲しんだ天皇は、命を「王子」として親王の式を以て弔い、命の御魂を食膳の神様として祭ることを定めました。
後年、六雁命は、南房総市の高家神社にて料理の神様として祀られ、現在に至ります。
ちなみに、聖徳太子の后のひとりで、最も篤い寵愛を受けた膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)は、六雁命の子孫です。
『磐鹿六雁命御事績 : 料理界之祖神高家神社奉祀』より抜粋
古代の天皇が千葉県に来たというのはにわかには信じられませんが、『常陸国風土記』に、景行天皇が霞ケ浦の「浮島」や下総国の印波(印旛)の「鳥見の丘」に来たという記述があるので、安房に来たというのも真実味がありますね。
皇子に難題を課しまくった景行天皇ですが、亡くなった皇子と六雁命に対する対応をみていると、人柄が良さそうな雰囲気です。
創建・由緒・歴史・祭神
創建年代および由緒不詳、平安時代に『延喜式』神名帳に記載(式内社)、明治期から終戦期まで郷社、神磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)、天照皇大誹(あまてらすすめおおみかみ)、稲大誹(いなりのおおかみ)を祭神とする神社です。
祭神
高家神社の祭神は、磐鹿六雁命、天照皇大神、稲荷大神の三柱です。
旧郷社 通称 高家神社
祭神
磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、稲荷大神(いなりのおおかみ)
由緒沿革
安房朝夷郷に坐す式内社四座の一社である。創立は元和六年(一六二〇)八月高木吉右二門が一体の木像と二面の古鏡を高家宮大宮畑(たかいえのみやおおみやばた)で発掘、古鏡に刻まれた祭神名と縁の地名により後世、京都吉田家に認許を願い出て確証を得た。主祭神磐鹿六雁命は第―二代景行天皇の東国巡幸に従い、安房浮島で大蛤と鰹を調理献上し、その功大なるを以て、大膳職、大伴部を賜わり、後に宮中醤院鎮護の神(高倍神)とされた。御神徳並びに当地由緒にちなみ、唯一料理祖神・食神とし当社に奉斎す。
神事と芸能
祭神の由緒により庖技(庖丁式)が奉納される。また伝承芸能として神楽がある。
歴史
室町時代の戦火と江戸時代の山津波による二度の消失を乗り越えた神社です。土の中から掘り出された神鏡をもとに神社が再建されたという逸話が興味深いです。
- 927年以前、安房国朝夷郷に「高家神社」創建
- 永享・嘉吉年間(1429~1444年)、戦火により消失
- 万治三年(1660年)(元和六年(1620年)とも)、近在の村民 吉右衛門の夢に「伊勢大神」が現れる。お告げに従い土を掘ると、「高家神社祭神御気津尊磐鹿六雁命」「天照大神」と記された二枚の鏡と木像が出土。これを神体とし、千倉に漂着した流木を使用して、「伊勢両社大神」(両社大神宮)を創建。
- 元禄十六年(1703年)、山津波により消失
- 宝暦11(1761年)、所在不明
- 江戸末期、現在の千倉町南朝夷へ社地を移転
- 文化二年(1805年)、神鏡が往古の「高家神社之神璽」であることが判明
- 文政二年(1819年)、同社の高木美濃が京都吉田役所に「奉願上」を提出。この時から社名が「高家神社」に戻る?
- 明治二年(1869年)、美濃が由緒書『安房国朝夷郡南朝夷村 縁起式内高家神社之記』を記す
- 戦時中、社務所を使用した軍が社宝を紛失
- 近代、ヒゲタ醤油や料理研究家らの労により今日に至る
参考:『式内社の歴史地理学的研究 : 安房国・伊豆国三宅島の場合』、『房総の古社』、神社の栞
写真図鑑
社殿
(2024年7月14日)
珍しい茅葺き屋根
石灯篭
入り口と鳥居
Takabe Srine
包丁奉納殿
庖丁塚、供養碑
社務所、手水
お守りやお札のほか、「高倍」醤油も購入できる
神輿殿
庖丁式奉納殿
境内風景
その他
忠魂塔
参拝順路
分社
ヒゲタ銚子工場の「高倍神社」(たかべじんじゃ)
ヒゲタ銚子工場の正門の右手に、昭和14年(1939年)、ヒゲタしょうゆ十三代目 田中直太郎氏が、醤油醸造の神様をお祀りために当社の分霊を祀った「高倍(たかべ)神社」が鎮座しているそうです。ヒゲタしょうゆは、高倍神社にちなんだ醤油「高倍」(たかべ)を開発、当社に奉納しています。
「高倍」醤油は、高家神社(千倉)の社務所で一般に購入することができます。
三浦市の海南神社の境内社「相州海南高家神社」
神奈川県三浦市三崎に鎮座する「海南神社」の境内社「相州海南高家神社」は、当社の分社です。海南神社では、当社同様、料理にまつわる祭礼を行っています。
本論とはずれますが、海南神社は、館山の2つの刀切神社の本社でもあり、安房の神社と関連の深い神社のようです。
詳細情報
社号 | 高家神社 |
ご祭神 | 神磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)、天照皇大誹(あまてらすすめおおみかみ)、稲大誹(いなりのおおかみ) |
境内社 | |
住所 | 南房総市千倉町南朝夷164 |
その他 | ■高家神社公式サイト https://takabejinja.com/ |
参考
上記のWeb サイトのほかに、下記を参考にさせていただきました。
- 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
- 『千葉県印旛郡誌』印旛郡 編 1913年
- 『日本各地を開拓した阿波忌部の足跡 : 古の『古語拾遺』の記憶. 安房国編』林 博章 編著 2006年