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大宮氷川神社 – アラハバキ神│埼玉県さいたま市大宮区高鼻町

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氷川神社コンテンツ

目次

1. 沿革

史料からわかること

「荒脛巾神社」が鎮座

現在、「大宮氷川神社」の本殿東側には、境内社「門客人神社(かどのまろうどじんじゃ、もんきゃくじんじゃ)」が鎮座しています。

「門客人神社」は、往古には「荒脛巾神社(あらはばきじんじゃ)」(荒脛巾社)と称していました。当時の祭神は不明です。

「門客人社」へ改称

江戸時代初頭頃、「荒脛巾神社」は、「豊磐窓命(とよいわまどのみこと)」「櫛磐窓命(くしいわまどのみこと)」を祀る「門客人社」へ改称されました。

「門客神(まろうどがみ)」とは、主祭神に対し、他の地域から招かれた「客分」となる神様のことです。千葉県の神社ではほとんど耳にしない神様で、希少な例として、「船橋大神宮」の境内に「客人神社」が鎮座しています。

「門客人社」へ改称は、『新編武蔵風土記稿』(1830年)に「出雲國杵築ノ摂社ニ門客人社ト云モノ二宇アリテ、東ハ櫛磐間戸命、西ハ豐盤間戸命ヲ祀ル」と記されているように、出雲国の「杵築大社」(現在の出雲大社)の摂社「門客人社」にならったものと考えられています。

「門客人神社」の祭神変更

後年、「門客人神社」の祭神は「足摩乳命(あしなづちのみこと)」「手摩乳命(てなづちのみこと)」へ変更され、現在に至っています。この二柱は、「大宮氷川神社」の現在の祭神の一柱「稲田姫命」の御親神にあたります。

祭神の変更時期は明らかではありませんが、『新編武蔵風土記稿』が完成した1830年以降と考えられます。

筆者の考察

上記の沿革を表にしました。

時代社名祭神情報源
往昔①荒脛巾神社『新編武蔵風土記稿』(1830年完成)
江戸時代初頭?

1830年
②門客人社豊磐窓命、櫛磐窓命同上
現在③門客人神社足摩乳命、手摩乳命氷川神社 公式サイト

現在の「門客人神社」の祭神と、旧社名である「荒脛巾神社」の祭神とは分けて考える必要があります。

「荒脛巾神社」という社名が実際に存在したことは重要な事実です。祭神は明らかではありませんが、その社名から、「アラハバキ」なる神様を祀っていた可能性が考えられます。

江戸時代初頭の、「荒脛巾神社」から「門客人社」への社名変更は、上述の通り「杵築大社」(出雲大社)の摂社の例にならった可能性が指摘されています。「大宮氷川神社」自身も、「杵築大社」を勧請して創建されたため、本宮および境内社がそろって、「出雲大社」に近い存在になったわけです。

その後近世に「門客人神社」の祭神は「足摩乳命」「手摩乳命」に変更されます。この変更は、次の点で違和感があり、恣意的な理由の存在が感じられます。

  • 「大宮氷川神社」の主祭神である「稲田姫命」の御親神を、「客人(まろうど)」として扱うのは、あまりにも不自然である
  • 変更前後の祭神に共通点が無い
  • そもそも祭神を変更する理由はあるのか


2. 鎮座場所

史料からわかること

江戸時代の「氷川神社」の社殿は、「男体宮」「女体宮」「簸(火)王子宮」の三社からなり、「荒脛巾神社」は本宮である「男体宮」の東側に鎮座していました。

現在も「門客人神社」は本殿東側に鎮座しており、「大宮氷川神社」の本宮および「門客人神社」の位置関係は大きく変わっていません。

筆者の考察

古くから聖地とされた場所に新たな神が祀られる際、それまで土地を守護していた神が境内社として残される例があります。例えば、「鹿島神宮」では本殿後方の「三笠社」に山の神が、「飯香岡八幡宮」では本殿後方の「六所御影神社」に地主神が祀られています。

こうした事例を踏まえると、「荒脛巾神社」もまた、「大宮氷川神社」成立以前からこの地で祀られていた地主神の祭祀を受け継いでいた可能性があります。

もっとも、これを直接裏付ける史料は確認されておらず、現時点では一つの説として理解するのが適切でしょう。


3. 江戸時代初期の大きな転換

史料からわかること – 江戸時代初頭の祭祀改革

中世末期から江戸時代初頭にかけて、「氷川神社」では祭祀体制に大きな変化がみられます。

それまで氷川神社は、「男体宮」「女体宮」「簸(火)王子宮」の三社を、岩井家・角井家・内倉家の三社家がそれぞれ奉斎していました。

しかし、中世末期の寿能城落城後、潮田氏に仕えた金杉氏が「門客人社」の社人となり、一時は「門客人社」を加えた四社四社家の体制となります。その後、氷川内記の時代には、「荒脛巾神社」は「門客人社」へ改称されました。

さらに、『新編武蔵風土記稿』には、この改称は出雲国「杵築大社」(現在の出雲大社)の摂社「門客人社」にならったものであると記されています。

また、氷川内記は中世以来の火剣祭を清祓へ祭替えするなど、祭式にも改革を加えました。

しかし、延宝七年(1679)の裁許により門客人社の社人は廃され、「氷川神社」は再び三社三社家の体制へ戻っています。

本稿とは直接関係しませんが、寿能城落城後、家老の北沢宮内直信は「氷川明神」の大門に蟄居し、大宮における北沢家の始祖となりました。
また、別の家老であった加藤大学の子孫は、「氷川明神」の社家となったと伝えられています。
こうしたことから、寿能城落城後には金杉家だけでなく、潮田氏の旧臣らが「氷川明神」と深い関わりを持ちながら大宮に定着していったことがうかがえます。

史料からわかること – 氷川内記の改革

江戸時代初頭の祭祀改革の中心人物として知られるのが、氷川内記です。

中世末期、寿能城主・潮田出羽守に仕えた金杉氏は、寿能城落城後に門客人社の社人となりました。その後、小室・出水を経て「氷川」と改姓したと伝えられています。

氷川内記は京都吉田家から神道裁許を受け、火剣祭を清祓へ祭替えするなど、氷川神社の祭祀改革を進めました。また、『新編武蔵風土記稿』には、荒脛巾神社を「門客人社」へ改称したことや、簸(火)王子宮を本社としようとしたことも記されています。

しかし、紀州徳川家の鷹場で鳥を捕えたことを理由に改易・追放され、延宝七年(1679)には「門客人社」の社人も廃されました。

年代内容
1590年以前 金杉氏は潮田氏の家臣
1590年(寿能城落城)以後 金杉氏が「門客人社」の社人となる。
その後 氷川内記の時代に「荒脛巾神社」から「門客人社」へ改号

筆者の考察

江戸時代初頭、「大宮氷川神社」では社家制度・社名・祭式など、祭祀に関わるさまざまな要素が短期間に変化しています。その中心にいたのが氷川内記であったことは、複数の史料からうかがえます。

特に注目されるのは、『新編武蔵風土記稿』に記された、「荒脛巾神社」を「門客人社」へ改称した理由です。同書は、その由来を出雲国「杵築大社」の摂社「門客人社」にならったものと説明しています。すなわち、単に社名を改めたのではなく、出雲の祭祀を意識した新たな位置づけを与えようとした可能性があります。

さらに、火剣祭を清祓へ祭替えしたことや、「簸(火)王子宮」を本社としようとしたことも伝えられています。これらは、それぞれ独立した出来事だったのでしょうか。それとも、一つの思想のもとに進められた一連の祭祀改革だったのでしょうか。

現時点では断定できません。しかし、江戸時代初頭の氷川神社が、祭祀のあり方そのものを見直す大きな転換期を迎えていたことは間違いありません。その改革の目的や思想については、今後さらに史料を読み解くことで、その全体像が明らかになることを期待したいと思います。

4. まとめ

これらの事実から、「アラハバキ神」こそが「大宮氷川神社」の古い地主神であり、後に出雲系の祭祀が重ねられたのではないかという説があります。

しかし、そのことを直接示す史料は確認されておらず、現時点で断定することはできません。

一方で、「荒脛巾神社」という社名、本宮の傍らという社殿配置、そして江戸時代初期に行われた社名・祭神・祭祀の変更は、「大宮氷川神社」の成立を考える上で極めて重要な手掛かりであることは確かです。

「荒脛巾神社」は、どのような神を祀る社だったのでしょうか。また、なぜ門客人神社へ改称されたのでしょうか。

現時点で明確な答えはありません。しかし、これらの史料を丁寧に読み解いていくことが、「大宮氷川神社」の古い姿を知るための重要な鍵になるように思われます。


基本情報

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

新編武蔵風土記稿』抜粋

P13

氷川神社

(前略)孝昭帝ノ御宇勅願トシテ出雲國氷ノ川上ニ鎭座セル杵築大社ヲウツ祀リシ故氷川神社ノ神號ヲ賜ハレリト武蔵風土記ニ

孝昭天皇の御代、勅願をして、出雲国氷ノ川上に鎮座する杵築大社(出雲大社)をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜(たまわ)る

参考:新編武蔵風土記稿 巻之151 足立郡之17,巻之152 足立郡之18,巻之153 足立郡之19,巻之154 足立郡之20

P16

簸王子社

三島居ヲ入テ正面ニアリ當社ハ神主角井監物司トレリ祭神ハ大己貴命ト云一節ニ軻遇突智命ナリトイヘト前ニモ記ス如ク出雲國簸ノ川上ニ鎭座セル杵築社テ寫シテ氷川明神ノ號ヲ勅許セラレル由傳フレハ恐クハ大己貴命ナル(中略)

摂社 門客人社

男體社ノ東ニアリ祭神ハ豊磐窓命櫛磐窓命門客人社ノニ座ニテ古ハ荒脛巾神社ト號セシテ氷川内記神職タリシ時神祗伯吉田家へ告シテ門客人社ト改號シ手摩乳脚摩乳二座ヲ配祀スト云按ニ出雲國杵築ノ摂社ニ門客人社ト云モノ二宇アリテ東ハ櫛磐間戸命西ハ豐盤間戸命ヲ祀ル由ナレハ門客人號ハ全クコレニモトツキシナラン又脚摩乳手摩乳ノ二神ハ同所夭前社ノ祭神ナレハ爰ヘ配祀セシナルヘシコレ等ニ據テモ當所氷川社ノ簸川上杵築社ヲ移シ祀リシコト証スヘシ

参考:新編武蔵風土記稿 巻之151 足立郡之17,巻之152 足立郡之18,巻之153 足立郡之19,巻之154 足立郡之20

『武蔵国式内社の歴史地理』抜粋

P60

次に、武蔵国造の父祖が、前住民たちにより神聖視されていたヒカハの地に、その氏神を祭ったものとして、もともとその氏神というのは、どのような神であったろうかという問題を考えてみたい。
 氷川神社の現在の祭神は、須佐之男命(スサノオノミコト)、大己貴命(オオナムチノミコト)、稲田姫の三神となっている。この点は、江戸時代においても同様であるが、その時代には今日とちがって、各祭神はそれぞれ別々の社殿に祀られてあった。神橋を渡って、左手にあるのを男躰社と称して、須佐之男命を祭神とし、右手にあるのを女體宮と称して、稲田姫を祭神とし、中央の奥にあるのを簸の王子社と称して、大己貴命を祭神とした。なほの王子社の祭神については、一説には、大己貴命ではなくて、カグツチノ命であると伝えている。
 右の三社につき、新編武蔵風土記稿は次のように記している。
「さて当所(氷川神社)三社の次第につきて、昔より異論あり、あるいは当社大己貴命本体にして、男躰女躰は彼父母の神なれば、摂社に祀りしものといい、あるいはいふ、しかはあらず男躰素戔嗚尊本体にして、簸王子は火神軻遇突智命(カグツチノミコト)を祀りて、大己貴命にはあらず、よりて当社と女體とは摂社なりと。此事争論決しがたくて、元祿十二年遂に公訴となりしとき、同じき九月寺社奉行戸田能登守・永井伊賀守・井上大和守等が判にて、双方明証なきを以て、この後三社同格として、甲乙の次第あるべからず、且神主の次序は家督の新古を以って定むべしとの下知ありしとなり云々」
 延喜式の神名帳では、氷川神社は一座となっているから、もともと祭神は一柱であったわけで、同社に三神が祭られるようになったのは、後世のことである。それでは氷川神社の本来の祭神は、誰れであったのだろうか。(後略)

『埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉』

P286

45 氷川神社 ひかわじんじゃ

歴史
(前略)
創立は、角井惟臣(つのいこれおみ)の記した『氷川大宮縁起』や風土記稿』に、第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日、出雲国、氷の川上に鎮座する杵築大社を遷して氷川神社の神号を賜ると伝える。氷川は、出雲国の大河である肥河(斐伊川)にちなむものといわれる。
祭神は、出雲国の祖神である須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の三柱である。神紋は八雲紋で、これは須佐之男命の御神詠「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」に由来する。神紋の八雲の中には、見沼の水草が二葉添えられている。

(中略)

古代の奉斎氏族は、足立郡を地盤とした丈部氏が関与している。なかでも丈部直不破麻呂は、『続日本紀』によると恵美押勝の乱鎮圧の軍功により、天平宝字八年(七六四)十月七日外従五位下に叙されている。当社が天平神護二年(七六六)朝廷より封戸の寄進を受けたことは、武蔵国内で勢力のある氏族丈部氏が祭祀を司っていたことを裏付けるものである。

P287

(前略)社家は、江戸初期、まず男体社の岩井家、女体社の角井家、簸王子社の内倉家、門客人神社(荒脛巾社)の金杉家の四家があり、祭祀は各社で行っている。このうち金杉家は「延宝七年裁許状」によると、氷川と改姓、内記と名乗り、京都の吉田家より神道裁許状を受け、中世以来の「火剣祭」を清祓いに祭り替えをしたが、紀州徳川家の鷹場で補鳥したため改易されている。以後、祭祀は「元禄十二年裁許状」により年番神主制とされ、三社・三社家同格と定められている。

『大宮市史 第3巻 中 (近世編)』

一、宗教
1 近世の神社と寺院
(1)氷川神社

(前略)

イ 社法・社格
氷川神社は、延喜式神名帳記載のとおり、本来一座(祭神については須佐之男尊他諸説あって明らかでない)であったが、いつの頃からか(少なくとも中世初頭から)男躰宮(須佐之男尊、合殿、伊弉諸導、大己貴命、日本武尊)女躰宮(稲田姫命、合、伊弉冉尊、天照大御神、三穂津姫命、弟橘媛命)、簸(火)王子宮(大己貴命、或いは火神軻遇突智神)の三社が県立し、それぞれ、大祝岩井家(第二巻)、小祝角井家(第二巻)、内倉家(現西角井家、往古「大宮」と称す)(第二巻)の三神主家(いずれも京都吉田家の支配をうけていた)が奉斎していた。
[史料二]
氷川大宮祭神之事
(前略)往古以大己貴命為男体宮之御相殿、外ニ火王子之社無之、随身門ノ朱塗ナル事也、仏方盛大ナル時ハ仁王門ニナセシ事モアリト見タリ、門客人社ノ神躰ニ、仁王門ノ鉄仏ノ像アリシヲバ、氷川内記取出シ捨タル由玄伝也、荒脛巾ニ御座ムシロ等ヲナセル事今モ処々ニ見ナリ、此社ニ神主無リシヲ寿能原ノ城主潮田出羽守ノ家来金曽木氏、潮田滅亡後門客人社ノ社人望シ故、神主共モ何心ナク捨置シニ段々増長シ、金杉ヲ改小室ト云又出水ト改後ニ御夢想ノ由ニテ氷川ト改メ、三神主同格ノヤウニ成配当ヲモ廿五石取(後略)
(東角井家文書)
右の史料によれば中世末期、寿能城主潮田出羽守の家来、金杉(金曽木)氏が潮田氏滅亡後門客人社の社人を望み金杉を改め小室といい、また出水と改め、後に、夢想の由によって氷川と改め、三神主と同格のようになった。従って近世初頭における氷川神社は、男躰宮、女躰宮、簸(火)王子宮、門客人社の四社が奉祭され、岩井、角井、内倉、金杉(後氷川と改む)の四神主がそれぞれ奉仕し、社領の配当を得ていたことが、天正二十年(一五九二)の「配当覚」(史料三)や、慶長九年(一六〇四)の「配当賞」(史料四)等によっても知ることができる。
(中略)
しかるに、門客人社を奉斎していた氷川内記は、寛文二年(一六六二、及び延宝四年(一六七六)に上京して、吉田家から神道裁許状(史料五)を得て推力をふるい、次に記すとおり従来の男躰宮をもって本社としていたことを改めて簸(火)王子宮を本社とすべく画策したが、送に実現するにはいたらなかった。
(中略)
これら四社の社格については、延宝七年(一六七九)の次の史料によると「一、氷川大明神者、男躰為本社之間第一ニ崇之尤候、近年氷川内記私を以火王子崇本社、男躰女躰疎ニ至之、新儀非分不可然事」とあり、男躰宮を本社としていたことがわかる。そして、「本社男躰者岩井主水、女躰者角井式部、火王子者内倉斎、門客人社者氷川内記、加右遂次第従先年守之由主水、式部、斎、申之、然上者社人之座順も順社之次第可然事」と座順も定め、更に「火劔祭之事、延宝四辰年、内記上京、吉田江望之、清祓ニ祭替之由伝授有之上者可為其通。但シ清祓伝授之社人無之間者中絶不苦候事」「附門客人社内記守之由雖中之、門客人社者一社之神主与難崇申之間、向後門客人社之社人令停止之三人之社家共可相斗之事」とあり、門客人社は一社の神と崇め難しとされ、従って同社の社人もまた認められなくなって、三社三社家となった。それ故に「一、当社之御朱印并修理料金之儀、三人之社家相対納之置、右之入用之節者、三人相談之上可相斗之事」とされた。
その後、氷川内記は「去冬於紀伊殿鷹鳥を採不届之仕方、依此令追放之処」とあるように紀州家の環場で鳥をとった故をもって改易され、上青木村(川口市)に追放されている。従って延宝七年の米川家廃絶後の社家は、岩井、角井、内の三家となった。(後略)

『埼玉ふるさと散歩 (さきたま双書)』

氷川氏 氷川氏は、寿能城家老職金杉外記が寿能城滅亡後氷川神社に營居し、そのまま同社神主となり、その子内記が氷川と改め、氏としている。内記は吉田唯一神道に系統し、権勢を誇ったが、紀州御鷹場で鳥を捕えたのを理由に幕府に訴えられ、採決により追放。以後上青木に蟄居し、のちに伊奈氏に仕官し江戸に住した。

『大宮市史 第2巻 (古代・中世編)』

四 戦国期の大宮

P371

(前略)

大宮市域に住む太田家の遺臣のうち、伊達房実・春日景定・松野助正のように、徳川家康に召出されて、旗本に取り立てあれた者もあったが(寛政重修諸家譜)、大部分の者は郷里にあって帰農した。
寿能城主湖田資忠の遺児資政ものちに徳川家康に召出されて、土井利勝の組下の走り廻りの旅となったが、土井家が下総国小見川(千葉県香取郡小見川町)で一万石の大名となるとそれに従った(潮田家譜)。
一方、湖田家の旧間たちは、「資忠伝」によると、ほとんど帰農してしまった。まず家老の北沢宮内直信は、寿能城落城後、氷川明神の大門に蓋居したが、小田原で戦死した潮田資忠父子の霊を慰めるために、寿能域の物見塚にその霊を勧請し、毎年四月十八日の命日には祭祀を怠らなかったという。ただし、この塚を公然と出羽守塚と呼べないので、鎮守稲荷といったという(北沢家家譜)。この稲荷様は、のちに北沢家の鎮守となって、最近まで武蔵野館裏にあったが、現在は漫画会館に移されている。
同じく家老の駒井伊子の子孫は断絶したが、家老加藤大学の子孫は氷川明神の社家などになった。なお、用役の金杉新左衛門の子孫は百姓となり、用役森田太郎左衛門の子孫は不明である(資忠伝)。(後略)

『大宮市史 第3巻 上 (近世編)』

P465

大宮市域でも、このように帰農させられたものは多かったようである。彼らは村の草分け百姓となり、名主などの村政の中心的存在として活躍した。次にその幾人かをみておこう。
大宮宿の北沢家は、家譜によれば、元祖神平次は信濃国筑摩郡北沢村に居住し、その嫡子宮内直方は、太田三楽斉資正に仕え、その嫡男直信は、資正の四男寿能城主潮田出羽守資忠に家老職として仕えた。天正十八年(一五九〇)小田原落城の際には、小田原から寿能城へ引返し防衛したがあえなく寿能城も落した。生き残った城主資忠の二男資政は幼く、直信は、加藤大学と謀って常陸国新治へ移した。落城後の直信は、氷川明神の大門に蟹居し、大宮における北沢家の始祖となった。
二代目左太夫直元(通称甚之丞)は直信の二男で、慶長十一年(一六〇六)寿能城跡を甚之丞屋敷として拝領し、近辺の土地開墾に従事した。この土地がのちに甚之丞新田と呼ばれた所である。後氷川明神大門通りに移り、御伝馬役を勤め、寛永二年(一六二五) 没した。
三代目甚之丞信方の代、寛永五年(一六二入)に、大宮町に移り、大宮町の草創者となった。覚永年間、四代目治部左衛門光の時に、始めて紀州御鷹場御鳥見役を命ぜられ、以後代々この役をうけついだ。
また同家譜によると北沢直僧と同じく潮田出羽守の家老であった加藤大学も、直信と行動を共にし、一時高鼻村に居住したが、後に新宿中町に移り、その子孫は六左衛門と称し名主役を勤めたといわれる。
近世後期には大宮宿の本陣を勤めた山崎家も、系図によると、初代吉村(太郎兵衛)は岩付太田氏に仕えたが落城後、浦和領芝村に帰農し、慶長十四年(一六〇九)六十二才で没。この吉村の二男喜左衛門吉胤が、大宮駅に移住し後の山崎本陣の祖となったと伝える。

Webサイト

書籍

  • 『日本民俗学 〔第1-4〕 神事篇』中山太郎 著 昭和5
  • 『新編武蔵風土記稿 巻之151 足立郡之17,巻之152 足立郡之18,巻之153 足立郡之19,巻之154 足立郡之20』内務省地理局 明17年 ← 文化・文政期(1804年から1829年)に編まれた1830年(文政13年)に完成
  • 『新編武蔵風土記稿 巻之135 足立郡之1,巻之136 足立郡之2,巻之137 足立郡之3,巻之138 足立郡之4,巻之139 足立郡之5』内務省地理局 明17年 ← 文化・文政期(1804年から1829年)に編まれた1830年(文政13年)に完成
  • 『日本の神々 神社と聖地 11 関東』谷川 健一 編 1984年
  • 『埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉』埼玉県神社庁神社調査団 編 1998年
  • 『武蔵国式内社の歴史地理』菱沼勇 著 1966年
  • 『埼玉ふるさと散歩 (さきたま双書)』大宮市サンケイリビング 編 1976年
  • 『大宮市史 第2巻 (古代・中世編)』大宮市史編さん委員会 編 1971年
  • 『大宮市史 第3巻 上 (近世編)』大宮市 編 1977年

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