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三輪茂侶神社│流山市三輪野山

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流山市三輪野山の三輪茂侶神社(みわもろじんじゃ)の概要

三輪茂侶神社(みわもろじんじゃ)は、創建年不詳ながら、栃木県の豪族「下毛野君」が当地で物部の祭祀を行い「大物主」を奉祀したことに始まる、流山市三輪野山に鎮座する神社です。

「下毛野君」は、東国を治めた「豊城入彦命」(第十代「崇神天皇」の皇子)の子孫です。下毛野は現在の栃木にあたります。

当社は、『延喜式』に記載される「下総国十一座 葛飾郡二座 茂侶神社」の比定社のひとつです。論社は県内に三社、埼玉県に一社あります。

大正時代初頭まで、「三輪神社」と称していました。

『千葉県神社名鑑』には「三輪茂呂神社」(←「侶」ではなく「呂」)と記載されています。同書には神社本庁未包括神社と記されていますが、現在は包括神社となっています。

祭神

祭神として次の神様が祀られています。

  • 大物主命

創建の由来・沿革

奈良の伝承

奈良県桜井市の「三輪山」は、「大物主大神」が鎮まる神聖な山で、「御諸山(みもろやま)」とも呼ばれます。

『日本書紀』によると、第10代「崇神天皇」は「大物主神」を祀るため、「大田田根子」を祭主とし、物部氏の祖先である「伊香色雄」に祭器を作らせました。

また、「崇神天皇」の皇子「豊城入彦命」は、夢の中で「御諸山」に登り、槍を八回振るい、刀を八回打ち鳴らしたと伝えられています。この「豊城入彦命」は東国を治め、その子孫が「上毛野君」「下毛野君」となります。

奈良県桜井市の三輪山
写真:https://www.photo-ac.com/main/detail/33874856

当地で「大物主大神」を創祀

かつて印旛の西の高台では、魔神による災いが相次ぎ、人々が苦しんでいました。

そこへ「豊城入彦命」の子孫である「下毛野君」が訪れ、「物部の八十手が作れる如き物」を作り、「大物主大神」を祀ったところ、災いが収まり、農作物が実るようになったと伝えられています。これが当社の起源となるようです。

印旛の西の高台

奈良の故事にちなみ地名・神社名・村名を命名

「下毛野君」は、当地の地名・神社名・村名を、上述の奈良の故事にちなみ次のように名付けました。

  • 槍を八回振るい、刀を八回打ち鳴らしたことから、当地を「八木」と命名
  • 「三輪山」の別名「三諸山」の「諸(もろ)」にちなみ、神社を「茂侶神社」と命名
  • 「三輪山」にちなみ、村名を「三輪野山」と命名

平安時代以降の社名変更

貞観2年(860年)、朝廷から勅使が派遣された際、「裳侶神社の御神前で申し上げる」と言ったと伝わります。当時の社名の漢字表記は「裳侶神社」だった可能性があります。

その後、年代不詳ですが、当地の地名に因んだのか「三輪神社」と称します。

大正7年(1918年)に、「三輪神社」から「式内茂侶神社」への社名変更を行政に申請しました。したと考えられます。

写真図鑑

拝殿

本殿

鳥居

一之鳥居

二之鳥居

境内社

一之鳥居の左手の小祠、仏像等

三峯神社

手水舎

大国主の像

万葉歌碑

「にほとりの 葛飾早稲を にへすとも そのかなしきを 外に立てめやも」万葉集巻一四
現代語訳:葛飾で採れた早稲の米を神に供える新嘗の祭りであっても、愛しいあの人を家の外に立たせておくことなどできようか。いや、できない。

「にほとり」は不明、「にへす」は新穀を神に供えること、「かなしき」は愛しい人、「外に立てめやも」は外に立たせておくだろうか、という意味です。

当社とは直接関係がない歌のようです。

境内風景

参拝順路

県道52号線を西から向かう

県道52号線を東から向かう

鳥居から社殿に向かう

基本情報

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

『千葉県神社名鑑』抜粋

三輪茂呂神社

鎮座地 流山市三輪野山六一九番地

『流山市史 通史編 1』抜粋

P633

茂侶神社(三輪神社)

第4表によれば、茂侶神社は三輪神社と表記されている。「三輪神社を延喜式内茂侶御神社と変更願書」によれば、

三輪神社は大和国城上郡(今の磯城郡)三輪山の麓に祭れる大物主命の分霊を奉祀するものにして、崇神天皇意富多多泥古命を以て神主となし、御諸山(諸上茂侶神音相通し)意富美輪之大神の御前に拝神し給ひしに困り、山名を採りて茂侶神社と称し、貞観二年勅使下向の時、裳侶神社の広前に申佐久とあり。材名を附するに際し三輪山の鎮座なるを以て三輪山村と名げ、神号を三輪神社と唱へしもの、如し。然るに延喜式神名帳に下総国葛飾郡に二座(並小)茂侶神社とありて、大物主命の神祭なれば、本社が此の茂侶神社なること紛れなきことなり。依て本社を式内茂侶神社と変更相成度、別紙古文書写並に由緒相添へ此段相願候也。
大正七年五月九日
右三輪神社々学 中村賢大郎印
氏子惣代人三名略
(『千葉県東葛飾郡誌』)

とあり、裳侶神社が三輪神社に改められたが、この神社は「延喜式」に記載されている茂客神社であるとして、大正七年以降に改称されたことがうかがわれる。
茂侶神社の創建や由緒を示す史料はなく、僅かに『千葉県東葛飾郡誌』に記載された「由緒書」が残されているに過ぎない。

由緒書
爰に、本社の由来を温ぬるに、年代不詳印波の西の高台は魔神の災害多く、蒼生の困難日に加はるとき、下毛野君来りて物部の八十手が作れる如き物を作りて、大物主大神を斎き奉りて、災を壊ひ魔神を遠ざく、是に於て五穀漸く成りて百姓業に安んぜり。太神神社の神号は、下毛野君の始祖豊城命夢に自ら三諸山に登りて、八回槍を弄し、八回刀を撃ぬとの夢辞に因みて、土地を八木と名づけ、八木郷と称し、神社を山名の諸(茂侶)に因て茂侶神社と名づけしとぞ、村名を三輪山に因みて三輪野山とせしは後のことなり。本社は八本の大杉を以て神木とし、祭祀の供物は八十手が作る所の祭物皆八の数を以てして、毎年一月八日の祈年祭の八井の鏡餅を神前に供えて、之を氏子の分割するを神賀楽餅と称して今尚ほ之を行へり、神木の大杉寛永年中には二本となり、今枯れて其根片耳存せり。本社は流山町の北端八木村に接し、南面して両町村の境界一里許りの一直線なる神路、鮎ヶ崎に至る其の半ば西平井に一の鳥居の跡あり、太古は其神木は海路の標にして、神路の南端は船舶の発着せし処なりと日ひ伝ふ。
(『千葉県東葛飾郡誌』)

この「由緒書」は「三輪神社を延喜式内茂侶御神社と変更願書」(前掲)の別紙と考えられ、提出にあたって口伝をまとめたものと考えられる。

『拝殿屋根葺替記念碑』抜粋

拝殿屋根葺替記念碑
(前略)
創立年代は 式内社であり 又奈良時代・平安初期に大和地方から当地に部族の移動記録等により その時代と推察される
御祭神は 大物主命 又の御名を大国主命とも大己貴命とも称える
(後略)

境内由緒書『茂侶神社ヂンガラ餅行事(茂侶神社)』抜粋

茂侶神社ヂンガラ餅行事(茂侶神社)

流山市指定無形民俗文化財第二号

茂侶神社は大物主命を祀り、平安時代初期の書物「延喜式」にその名を記された神社であると考えられている。(後略)

境内由緒書『茂侶神社(もろじんじゃ)』抜粋

茂侶神社(もろじんじゃ)

平安時代の神名帳にある神社。式内社(しきないしゃ)。祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)。境内には、大国主の像(おおくにぬしのぞう)や万葉歌碑(まんようかひ)などの石造物がある。(後略)

境内由緒書 抜粋

延喜式神名帳(平安初期に依られた法令集)にのっている式内社で大和国城山郡三輪野山(奈良県)の麓に祭礼し大物主命の分霊を祀る。(中略)

茂侶神社(三輪の山)

Webサイト

書籍

  • 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
  • 『流山市史 通史編 1』流山市立博物館 編 2001年

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