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蛟蝄神社 – 創建の由来│茨城県北相馬郡利根町立木

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「香取の海」と「蛟蝄神社」

先史時代から古代にかけて、茨城県南部と千葉県北部には、霞ヶ浦・北浦・印旛沼・手賀沼・利根川下流域が含まれる広大な内海「香取の海」が広がっていました。

「香取の海」の西部には、東西方向に細長く伸びる半島があり、「蛟蝄神社」の現在の鎮座地は、その半島の東端部にあたります。

旧石器時代~弥生時代の遺跡と「蛟蝄神社」

この半島からは、縄文時代や古墳時代の遺跡が多数出土しています。

一方、不思議なことに、縄文時代と古墳時代の間にあたる弥生時代の遺跡はほとんど見つかりません。この時期、当地には人が住んでいなかったのでしょうか?

縄文時代後晩期の遺跡と「蛟蝄神社」

「蛟蝄神社 門の宮」の周辺には、「立木貝塚」という縄文時代後期から晩期の遺跡があります。

当遺跡からは、土偶、土製耳飾、貝輪、骨角器などが豊富に出土しました。特に土偶は、全国でも最多出土遺跡の一つとして知られているそうです。

土偶の具体的な用途は不明ですが、一般的には祭祀に用いられたと考えられています。縄文時代の終わりごろ、「香取の海」に突き出た半島の先端にあたる当地で、祭祀が盛んに行われていたのかもしれません。

弥生時代(または奈良時代)の「蛟蝄神社」の創建

水神の奉祀

第7代「孝霊天皇」の三年(紀元前288)に、現在の「門の宮」の場所に水の神「罔象女大神」を祀り創建されました(利根町HP、「門の宮」の境内由緒書等)。

創建年について、第36代「孝徳天皇」の三年(647年)という説もあるようです(『茨城県神社誌』『茨城の神社覚書 1 (茨城の式内社)』)。

先述の通り、弥生時代の遺跡が皆無に近いことから、創建年を紀元前288年とするのは、少し無理があるように思われます。

土神の奉祀

その後、第42代「文武天皇」二年(698年)に、土の神「埴山姫大神」が相殿に祀られました。

「奥の宮」の創建

年代は不明ですが、当社「門の宮」から東に680mほどの場所に、「奥の宮」が創建されました。

「蛟蝄神社」の社名が変化

「蛟蝄」の読み方について、現在は「こうもう」とされていますが、『延喜式』では「ミツチノ」と振り仮名が振ってあります。往古の読み方は、「みつちのかみのやしろ」だったのでしょうか。

一方、江戸末期には「文間明神(もんまみょうじん)」と呼ばれていたようです。

漢字と読み方について、次のように変遷していったという説があります。

時代漢字(読み方)参考
平安中期蛟蝄神社(ミツチノカミノヤシロ)『延喜式』…(927年)
平安末期蛟虻(ブンモウ→ブンマ)下総権介平経繁私領寄進状案(櫟木文書)…大治五年(1130年)
江戸末期文間明神(ブンマ?→モンマ)『下総国旧事考』…弘化2年(1845年)

明治時代に周辺神社を合祀

「倉稲魂命」「素戔嗚尊」「菅原道真公」「誉田別大神」は、明治四十二年村内に合祀された「稲荷」「八坂」「天満」「八幡」の四社の祭神です。

現在は次の祭神が祀られています。

現在の祭神

主祭神

祭神として次の神様が祀られています。

  • 罔象女大神(みつはのめのおおかみ)…「水」を司る神

相殿神

相殿神として次の神社を合祀しました。

  • 埴山姫大神(はにやまひめのおおかみ)…「土」を司る神
  • 句句廼馳大神(くくのちのおおかみ)…「樹」を司る神様
  • 軻遇突知大神(かぐつちのおおかみ)…「火」を司る神様
  • 金山彦大神…「金属」を司るをつかさどる神様
  • 倉稲魂大神
  • 素戔嗚尊
  • 菅原道真公
  • 誉田別大神

祭神は「奥の宮」「門の宮」を交互に遷る

1986刊行の『茨城の神社覚書』によると、祭神の水神・土神は、「奥の宮」「門の宮」を次のように交互に遷ったようです。

  • 旧六月十五日を夏祭とし、水気旺溢たる「奥の宮」の水神を当社「門の宮」へ、当社「門の宮」の土神を「奥の宮」へ遷する祭儀が行われる。
  • 旧九月十五日の例祭では、当社「門の宮」の水神を「奥の宮」へ、「奥の宮」の土神を当社「門の宮」へ奉遷する。
  • 旺溢(汪溢、おういつ)…水がいっぱいにみなぎり溢れること

門の宮に坐す祭神奥の宮に坐す祭神
旧六月十五日(7月中旬~8月上旬・中旬)~旧九月十五日(10月中旬~11月中旬)水神土神
旧九月十五日(10月中旬~11月中旬)~旧六月十五日(7月中旬~8月上旬・中旬)土神水神

台風の時期の増水・水害を危惧して、半島突端の「奥の宮」から水神を移動させ、水の力を弱めたのでしょうか?

当地での祭祀はいつからか?

「蛟蝄神社」の鎮座地周辺にある立木貝塚から、縄文時代後期から晩期にかけての土偶が大量に出土しました。このことから、当地に住んでいた縄文人が神様、特に水神様に祈りを捧げ、その祭祀が「蛟蝄神社」に繋がったと考えたくなります。

しかし、縄文時代晩期には、関東の人口は大減少し、生き残った人々は定住生活ではなく移動生活を余儀なくされていたと考えられています。また、続く弥生時代には、先述の通り遺跡がほとんど見られなくなります。

ともかく、連続性は不明であるものの、先史時代から現在に至るまで、当地では時代を超えて神々への祭祀が行われてきた可能性があります。

ところで、当地の旧名「文間(もんま)」は、「文間明神」から来ているのでしょうか。

基本情報

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

『利根町史 第1巻 (眼でみる町の歴史)』抜粋

P39

文間台は、水中を泳ぐ蛟(みずち)の姿にみえ、これが大陸の竜信仰と混交し、蛟蝄神社がまつられるようになった。

境内説明書『立木貝塚』抜粋

利根町指定史跡

立木具塚

この周辺は、「立木貝塚」といわれる縄文時代後晩期の遺跡です。
縄文時代には、集落の周りの斜面や窪地などにゴミが捨てられていました。特に海に囲まれていたこの辺りでは貝殻が多く捨てられ、馬の蹄のような形をした「貝塚」として今も残っています。
この遺跡は、古くから知られておりましたが、正式に学会で紹介されたのは明治二十八年のことです。そのため、当時多くの採集家が小発掘を試み、その出土品は各地に分散しています。学術調査を最初に行ったのは、昭和三十七年の明治大学考古学研究室です。この調査では、縄文時代後期後半から変質し始めた関東地方の文化に、東北地方的な文化の流入が始まったことを証明するなど、相応の成果を納めました。
そして、この遺跡を全国的に有名にしたのは、土偶、土製耳飾、貝輪、骨角器などの「珍品」といわれる遺物が豊富に出土することでした。特に土偶は、全国でも最多出土遺跡の一つとして知られるほどです
土隅は、祭礼や儀式に使われたという説がありますが、今でも、この遺跡の上に蛟蝄神社が建っているのに歴史の流れを感じさせます。

境内説明書『史跡案内 蛟蝄神社周辺』抜粋

史跡案内 蛟蝄神社周辺

蛟蝄神社は孝霊天皇三年(前二八八)に水神の弥都波能売命、文武天皇皇二年(六九八)に土神の波邇夜須毘売命をまつったのが、そのはじまりと伝えています。記録にあらわれた最初は、延喜五年(九〇五)に編集を開始した『延喜式』の神名帳で、「相馬郡一座蛟蝄神社」と書かれています。蛟蝄の名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水地に似ていたためといわれています。門の宮のある所は、縄文後晩期貝塚(前二五〇〇~前三〇〇)で、そうした古代のありさまをしのばせます。同時にこの貝塚は全国的にみても貴重な遺跡として大切にされています。門の宮の社殿は慶長三年(一五九八)に布川藩主松平信が再建したという記録と元禄十一年(一六九八)再造営の棟札が残されています。奥の宮は元禄十六年に再建されました。簡素なつくりで、彫刻でかざられた門の宮と対象的な建築物です。蛟蝄神社には日本武尊が参拝したという伝説があり、近くに弟橘姫の櫛塚や舟形山があります。また周辺には史跡や伝説が数多く残されています。

昭和五十五年三月
利根町教育委員会 文化財保護審議委員会

*周辺をみだりに掘ったり汚したりすると罰せられます。

『茨城の神社覚書 1 (茨城の式内社)』抜粋

蛟蝄(みつち)神社

鎮座地
北相馬郡利根町立木字下台

祭神
弥都波能売命、波邇夜須毘売命
(配社)倉稲魂命、須佐之男命、菅原道真公、誉田別命

神階
不詳

社格
郷社(明治五年)

利根川とその支流小貝川の合流点の東部に位置し、南側を利根川が流れる水田地帯である。昭和三十年に、文間村、文村、東文間村、布川町の四町村が合併して利根町が出来た。蛟蝄神社は旧文間村立木の縄文期遺跡である立木貝塚上に門の宮(角の宮)東方約五百九に奥の宮があって、二ツの社殿から成る。(中略)
蛟蝄神社は、水の化身としての蛇を祭った社であることは、その社名から明かであるが、志賀剛氏は「式内社の研究」に、「社名の朝は学のある郡司が古詰の「みつち」に較期の文字をあてたもの」とし「思うに角の宮は、門の宮の義でもともとこれが蛟蝄神社であったが、あまり里に近いため、また水害を避けるため、いつの時期かに東方台地を開いて遷祀したが、その後も旧社をそのまま残して、本社(奥の宮)とこの角の宮を一体として祭り来ったもの」と記しているが、傾聴すべき見解であろう。
下総旧事考に「相馬郡立木村ニアリ、文間明神ト稱ス、奥ノ宮、門ノ宮ト二社ナリ、社ノ伝ハ、奥ノ宮ハ罔象女、、角ノ宮八埴山姫ヲ祀ルトイヘリ」、「罔象女、埴山姫を祀ルトイフハ、蛟蝄ノ訓水土ト通フニヨリ、付会セシモノナラン、世伝ニ神体ハ蛇形ナリトイへバ、文字ノ如ク蛟蝄ノ神ナルベシ」等と記す。蛟蝄という難しい字は庶民にはなじまず、大治五年(一一三〇)の下総権介平経繁私領寄進状案(櫟木文書)に「四至限東蛟虻境云々」と見え、平安末期には蛟虻と記され、ブンモウがブンマに転じ、文間の字があてられ、文間明神と稱されるに至ったものとされる。
延喜式神名帳に「相馬郡一座小較期神社」と記す。県神社誌は、当社の創建について、孝徳三年(六四七)水神を創祀、文武天皇二年(六九八)二月一日相殿に土神を祀るとする。思うに当地方は利根川沿岸の低地で、古代から水神を祭祀し、律令時代に及んで、社殿を造り、水神の霊を鎮め、洪水の無からんことと、稲作の豊穣を祈請、較神社と命名したのであらう。神名帳では、祭神一座であるから、水霊の神が本来の祭神で、農耕の神として土の神が後に配祀されたものと思う。
弥都液能売命、波通夜御助売命は、古事記神代巻に記す名で、伊邪那岐、伊邪那美二神より生れた神、書記神代上の一書には「水神岡象女、土神埴山姫」と記す。現配祀神の倉稲魂命外三神は、明治四十二年村内の稲荷、八坂、天満、八幡の四社を合併、合祭されたものである。(中略)
当社の祭祀は、江戸時代には六月十五日田植の神事、九月十五日稲刈の神事があった。(下総旧事考)現在の祭りも旧六月十五日を夏祭とし、奥の宮の水神を門の宮へ、門の宮の土神を奥の宮へ遷する祭儀が行われ、旧九月十五日が例祭、門の宮の水神を奥の宮へ、奥の宮の土神を門の宮へ奉遷、前日の十四日夜御茵(しきもの)を敷き改め、古い茵は葺茅で作った「たいまつ」へ納めて焼く御衣焚神事が行われる。その他一月一日旦祭、旧四月十五日事祭(農事始めの祭)一月十四日獅子入祭(当社所蔵の雌雄の子が氏子各戸を巡る祭事)がある。
古くは摂社十二社四十六神あったが、現在は門の宮境内社六社、奥の宮境内社一社が祀られている。

Webサイト

書籍

  • 『利根町史 第1巻 (眼でみる町の歴史)』利根町教育委員会 編 1979年
  • 『茨城の神社覚書 1 (茨城の式内社)』鎌田啓司 著 1986年
  • 『房総の古社』菱沼勇, 梅田義彦 著 1975年

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