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飽富神社コンテンツ
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袖ヶ浦市飯富(いいとみ)の飽富神社(あきとみじんじゃ)の概要

飽富神社(あきとみじんじゃ)は、第二代「綏靖天皇(すいぜいてんのう)」の兄「神八井耳命(かむやいみみのみこと)」の創建と伝わる、袖ヶ浦市飯富(いいとみ)に鎮座する神社です。

『延喜式』「神名帳」に望陀郡(もうだぐん)の鎮守として記載される式内社で、明治期から終戦期まで県社に列格していました。

時代とともに社名の漢字が変化し、次のように表記されます。

  • 飽富神社(あきとみじんじゃ、あくとみじんじゃ)
  • 飯富神社(いいとみじんじゃ)
  • 飫富神社(おおじんじゃ)
  • 飫富宮(おふのみや)

余談ですが、当サイト筆者の祖父母宅は、当社氏子域です。

祭神

『千葉県神社名鑑』に「倉稲魂命」含む三柱、『袖ケ浦町史 通史編 下巻』に次の四柱が記載されています。

祭神

  • 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)…穀物の神
  • 神八井耳命(かむやいみみのみこと)…初代「神武天皇」の皇子、第二代「綏靖天皇」の兄。

相殿

  • 大己貴命(おほなむちのみこと)
  • 少彦名命(すくなひこなのみこと)

祭神に関する考察

由緒ある古社によく見られるケースですが、当社も、時代、文献ごとに異なる祭神が記載されています。

文献に見る祭神の変遷

「倉稲魂命」説

後年の社名で使われる「飽富」の字から、当社祭神を五穀豊穣の神「倉稲魂命」としたと考えられます。

「神八井耳命(かむやいみみのみこと)」説

『延喜式』にある「飫富」の振り仮名の「オフ」をもとに、【飫富 = オフ = 多】と解し、有名氏族「多氏(おおし、おおうじ)」が当社の創建に関与したとする考え方です。

その説に立ち、当社の祭神を【多氏 = 飫富氏】の祖神「神八井耳命」に比定しています。

「天富命」説

江戸中期の『神名帳考証』は、次のように本来の祭神を「天富命(あめのとみのみこと)」に比定しています。

『神社覈録 下編』

考証云、此郡輸布所謂望陀布是也、飫富神社者、麻植神而、天富命之祀乎

考証にいうには、この郡で貢納する布、いわゆる「望陀布(まんだのぬの)」がそれである。飫富神社は、麻を植える神であり、天富命を祀ったものであろう。

当サイト筆者は、周辺情報から類推し、この説を支持しています。興味のある方は以下をタップしてご覧ください。

「〇〇トミ神社」が「飫富神社」になったか?

『延喜式』に記載される振り仮名が、必ずしも本来の読み方を反映しているとは限らないという前提のもとに考察していきます。

当サイト筆者は、南房総に移住した忌部氏の一部は、清澄山頂の「天富神社」から小櫃川を下り、流域一帯を開拓していったのではないかと考えています。詳細は以下で述べています。

ひとつの仮説として、小櫃川下流域に辿り着いた忌部氏が、祖神「天富命」を祀る「〇〇トミ神社」を創建し、平安時代に「飫富神社」という漢字があてられてしまった、という可能性は考えられないでしょうか? 偶然あてられた「飫富」の漢字が「オフ」と読めてしまったため、混乱が生じたというわけです。

もう一歩踏みこんで、鴨川市に「天富命」を祀る「天富神社」があるように、本社は次のように漢字が変化したのかもしれません。

【天富神社 → 夭富神社 → 飫富神社】

  • 参考:『邪馬台国に謎はない』(鈴木正知 著)

内房地域の忌部系の神社は、中臣勢力により、後世、社名や祭神を捻じ曲げられた雰囲気があります。当社も、その憂き目にあったのかもしれません。

赤:「天太玉命」または「天富命」を祀る神社
灰:忌部氏ゆかりと思われる地名
黒:水田耕作が行われた遺跡

創建者の神八井耳命

当社は、第二代「綏靖天皇」元年に、天皇の兄「神八井耳命(かむやいみみのみこと)」により創建されたと伝わります。

帝位を譲った命ですが、その子孫は、有名氏族の多氏(おおうじ、おおし)や各国の国造となり、大いに繁栄しました。県内では、長狭国造が命の後裔とされます。

船橋の式内社「意富比神社(おおひじんじゃ)」も、多氏と関連があるという説があります。

厄介な文字

飯富? 飽富? 飫富?

現在の「飯富」という地名は、下記のように変化していったそうです。

「飫富」→「飯富」→「飽富」→「飯富」

望陀

「望陀」は現在は「もうだ」と読みますが、『延喜式』では「まくた」と振り仮名が振られています。「望陀郡」は、「もうだぐん」「まくたのこほり」「まぐたのこほり」などと読まれます。

近隣の木更津市にある「馬来田」(まくた)との関りは不明です。

律令時代、同郡は調(租庸調のうち、布や特産物)として「望陀布」という麻布を納めていました。この布は、天皇の最も重要な儀式のひとつである大嘗祭で使用されたり、唐皇帝へ献上品として贈られるなど(遣唐使)、高級品として重要な位置を占めていたようです。

写真図鑑

社殿

社殿は1691年(元禄4年)に再建されたそうです。拝殿の彫刻が大変素晴らしかったです。

拝殿

拝殿向拝の彫刻

本殿

鳥居

狛犬

常夜灯

左の常夜灯

右の常夜灯

境内社(末社)

天明年間には、八十座近くの末社が鎮座していたと伝わります。見たこともない神様、忌部二柱など、見ていて面白いです。

八幡宮、三輪大明神、八王子、伊邪那岐伊邪那美神社、若宮八幡宮、稲荷大明神、八幡宮(蔵波)、疱瘡神、庚申猿田彦大神、月読尊、天照皇大神、竜田大神宮、太田命宮、牛頭天王宮、三之宮大神、保食大明神、稚産大明神、福王神社、澳津彦神、澳津姫神、大己貴大神、住吉大明神、香取大神宮、鹿島大神宮、白鳥大明神、大将軍神、酒解大明神、豊字加大明神、少彦名大神、石凝姥神社、柳葉大明神、高原大権現、広畑大権現、米倉大権現、秋口大権現、飯岡大権現、泉加大権現、広田大権現、飯盛大明神、清地大神宮、大宮売神社、波志取大明神、花輪之大明神、初杉大明神、飯取大明神、服部大明神、手置帆負大明神、第二大神宮、第四大神宮、第五大神宮、飯粥大明神、見通大明神、金山彦大神、外之宮埴安神社、矢立八幡宮(有吉)、子安大明神、大山祇神社、彦竜大明神、姫竜大明神、東明大明神、春日大明神、太玉大明神、菅苟大明神、罔象大明神、粟嶋大明神、草姫大明神、岐大明神、海神の宮、高之宮、会云鬼大明神、天雲神社、茅輪大明神、白狐大明神、東鎮神社、珂遇突智神社、木花浅間宮

末社の詳細は、以下のページにまとめてあります。

手水舎

由緒書、説明書

神輿庫

神輿庫

ご神木

社務所

お正月の光景

近隣からの眺望

参拝順路

詳細情報

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

『千葉県神社名鑑』抜粋

飽富神社(あきとみじんじゃ) 旧県社

祭神
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)他二柱

由緒沿革
綏靖天皇元年、皇兄神八井耳命が創始したと伝える。延喜式に飫富神社として記されている。天慶二年の平将門の乱により坂東の地は荒廃し、朱雀天皇はこれを憂えて勅使を送り、神剣を奉納し、兵乱鎮定を祈願した。明治五年県社に列した。末社は東照宮他で、小櫃川流域の洗野を眼下に、杉の老木が枝を交える荘厳な神苑の風景は古社であることをしのばせる。

『袖ケ浦町史 通史編 下巻』抜粋

第六節 飯富地区
飽富神社 飯富字東馬場二八六三
祭神 倉稲魂 命

 延長五年(九二七)に完成したといわれる『延喜式』の「神名帳」に、上総国五座のうち望陀郡一座飫富宮と記載された古社で、『神社大観』等には「祭神倉稲命、神八井耳命相殿として、大己貴命、少彦名命」とある。
 (中略)綏靖天皇元年の創建と伝えられる。
 神社の名称について一千葉県君津郡誌』は「飫富神社」と記し、庇下の社額には「飽富神社」拝段内は「飯富神社」と異なって表記し、日常会話では「おおのみや」という例があり、祝詞では「あきとみ」と奏上するようである。
 『姓氏家系辞典』の「飫富」には、上総の飫富として、
和名抄望陀郡に飯富郷あり、於布と訓するにより飯は飫の誤なるを知るべし。同地に飫富神社座す。元慶紀、延喜式に見ゆる名祠なり、蓋し多氏の奉斉せし宮なるべし。隣国安房の長狭国造、下総の印波国造等、何れも多氏の族なればなり。東鑑文治元年六月條に「囚人前廷尉季貞子に息源太宗季なる者あり、上総国飫富庄者外威伝領となす」とある外威は、此の多氏を指すならんか。東保文治元年後、建保元年條に飫富庄見ゆ。
と記されている。
 また、神納の『率土神社縁起』には、飯富宮の祭神が当地に到着した時に、土民の献上した麦こがしを食して飢えをしのがれたので、以後郷名の飯を飽に改めさせた、という記述がある。
 天明年間に深河香栄が編述した『唯一社頭年中行事』には、次の七五座の末社が伝えられる。
 八幡宮、三輪大明神、八王子、伊邪那岐伊邪那美神社、若宮八幡宮、稲荷大明神、八幡宮(蔵波)、疱瘡神、庚申猿田彦大神、月読尊、天照皇大神、竜田大神宮、太田命宮、牛頭天王宮、三之宮大神、保食大明神、稚産大明神、福王神社、澳津彦神、澳津姫神、大己貴大神、住吉大明神、香取大神宮、鹿島大神宮、白鳥大明神、大将軍神、酒解大明神、豊字加大明神、少彦名大神、石凝姥神社、柳葉大明神、高原大権現、広畑大権現、米倉大権現、秋口大権現、飯岡大権現、泉加大権現、広田大権現、飯盛大明神、清地大神宮、大宮売神社、波志取大明神、花輪之大明神、初杉大明神、飯取大明神、服部大明神、手置帆負大明神、第ニ大神宮、第四大神宮、第五大神宮、飯粥大明神、見通大明神、金山彦大神、外之宮埴安神社、矢立八幡宮(有吉)、子安大明神、大山祇神社、彦竜大明神、姫竜大明神、東明大明神、春日大明神、太玉大明神、菅苟大明神、罔象大明神、粟嶋大明神、草姫大明神、岐大明神、海神の宮、高之宮、会云鬼大明神、天雲神社、茅輪大明神、白狐大明神、東鎮神社、珂遇突智神社、木花浅間宮。
 末社は、社殿裏に八社ずつ並列の小詞が二棟、社殿左には十数基の石宮が祀られているほか、安産祈願の底なし袋が掛けてある小詞があり、元和八年(一六二三二)飯富の領主天野佐左衛門光得が勧請し、元治元年(一六一五) 子孫の天野民七郎再建の東照宮が別宮として建っている。

(後略)

『千葉県神社名鑑』抜粋

飽富神社 境内七十五末社の由来

御末社は、古来より七十五末社と称せられ、神域内に斎き祀る。
三百年前の神社々記 市正伝記より。(祭神名等の記述は省略する)

◇御本殿の後 東之方御末社 五社 一\~五座
◇神本殿の後 西之方御末社 五社 六~\十座
◇御本殿 東之方神末社 二十社 十一~三十座
◇御本殿 西之方御末社 十三社 三一~四三座
◇亥之方(北北西) 御末社 九社 四四~五二座
◇南方 御末社 三社 五三~五五座
◇寅之方(東北東) 御末社 四社 五六~五九座
◇卯之方(東) 御末社 二社 六〇~六一座
◇北方 御末社 十社 六二~七一座
◇丑之方(北北東) 御末社 二社 七二~七三座
◇申之方(西南西) 御末社 二社 七四~七五座

御末社合わせて七十五社なり。(成立年代不明)

(中略)依って当社 七十五社の制定の年次は、十世紀近くまで遡るものかと推測するものなり。

Webサイト

書籍

  • 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
  • 『日本の神々 神社と聖地 11 関東』谷川 健一 編 1984年
  • 『房総の古社』菱沼 勇、梅田 義彦 著 1975年
  • 『袖ケ浦町史 通史編 下巻』袖ケ浦町史執筆委員会 編 1990年
  • 『袖ケ浦町史 史料編 2』袖ケ浦町 1983年
  • 『神社覈録 下編』鈴鹿連胤 撰, 井上頼囶, 佐伯有義 校訂 1902年

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