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率土神社│袖ケ浦市神納

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目次

袖ケ浦市神納(かんのう)の率土神社(そっとじんじゃ)の概要

率土神社(そっとじんじゃ)は、天平三年(730年)創建と伝わる、袖ケ浦市神納(かんのう)に鎮座する神社です。

『袖ケ浦市史基礎資料調査報告書 4』に、旧村社であったと記載されています(『千葉県神社名鑑』にはその旨は記されていない)。

祭神

祭神として次の神様が祀られています。

  • 埴安姫命(はにやすひめのみこと)…伊邪那美命(いざなみのみこと)が産んだ土を司る神

相殿として次の神様が祀られています。

  • 倉稲魂命
  • 大己貴命

社名の由来

『詩経』説

境内由緒書に、社名は中国の詩集『詩経』にある次の詩に由来するとあります。『詩経』は、西周の初期(紀元前11世紀)から東周の初期(紀元前7世紀)の頃に作られた中国最古の詩集です。

溥天之下莫非王土 率土之浜莫非王臣

空の下にあるものは、すべて王の土地である 大地の果て(=率土)に至るまで、王の臣である

「率土明神坦安尊(はにやすのみこと)」説

『率土神社縁起』(後述)によると、奈良時代、元正天皇が摩伽陀国の盤古帝の后に「天豊媛命(あめのとよひめのみこと)」という神名と、「率土明神坦安尊(はにやすのみこと)」という諡号(しごう)を贈られたとあります。

「率土」はここから取られたのでしょうか?

『率土神社縁起』

当社には、祭神「埴安姫命」の由来等を記した縁起『率土神社縁起』が残されています。江戸初期の写本、室町時代に書かれたものと推定され、市指定有形文化財に登録されています。

2月9日の春季大祭には、この縁起を神前で読み上げる延喜式が行われます。

概要は次のようなものです。<>の題目は、当サイト筆者が付けました。

<盤古帝の后の日本移住>

古代、インドのガンジス川下流域に天竺摩伽陀国(マガダ国、マカダ国。前6世紀〜前4世紀末)という国があった。摩伽陀国の盤古帝と后、七人の太子、それに家臣の大朝臣(おおのあっそん)清麻呂といった一族郎党は、船に乗せられて国外へ追放された。

一向が播州飾磨(しかま)郡にたどり着くと、元正天皇(第44代天皇。女帝。在位715~724年)は、盤古帝と対面され、盤古帝のために新殿を造られてそこへお遷しになられた。

<関東移住>

盤古帝の后は、七人の太子を連れて関東へ下向し、そこで社を建て、末永く民を守ることを望んだ。すると元正天皇は、橘諸門朝臣岡本民部少安重と宮崎中将藤原朝臣義教にお供をするよう命ぜられた。

また、盤古帝の后の徳をたたえて、「天豊媛命(あめのとよひめのみこと)」という神名と、「率土明神坦安尊(はにやすのみこと)」という諡号(贈り名)を贈った。

<上総上陸>

盤古帝の后と七人の大子は、清麻呂、藤原義教、橘朝臣安重らと、その他の家臣たちを従え、養老二年(718年)四月下旬に都を出発して、六月初午の日に上総国望陀郡に上陸した。

<飯富から飽富へ>

食べものがなくなってしまったため、清麻呂が草刈をしている者に問うと、その者が薔薇の葉に麦香煎(麦焦がしのこと)を載せて献上した。后がこの郷の名を問うと「『飯富』といいます」と答えた。それを聞いて后は「汝が手向ける穀物で空腹を満たし、すでに飽く(満足する)なり、これよりこの郷の名を『飽富郷』といいなさい」といわれた。そして后は、清麻呂と義教にこの地に止まるよういわれた。

<神納>

后は、安重らとともに、当地(神納)に至った。この郷の者らは、后を貴人として迎え、新しい社を造ってお遷しした。后は安重に、「私はこの郷に住むことにし、亡くなった後もずっと民を守護しましょう。また、汝はこの郷に良い名前を付けなさい」と命じられた。安重が「神納」と名付けたところ、后は大いに喜ばれた。

天平二年(730年)十月一日、后が六三歳でお亡くなりになられると、七人の太子と家臣や住民たちはなげき悲しみ、后の遺体を石棺に納めて葬った。

后の死を天皇に奏上するため、橘朝臣安重は多田出雲という者をお供に天平二年(730年)十一月十二日に上洛した。聖武天皇は、諡号のとおり「率土明神坦安尊」と号し、后の墓所を守るよう命じた。

原文:『袖ケ浦町史 史料編 2』P501、『神道大系 神社編 18』P181
祖筋:『袖ケ浦町民俗文化財調査報告書 1 (昭和地区の民俗)』P80

この縁起は以下の箇所で時代の整合性が取れません。

  • 摩伽陀国:前6世紀〜前4世紀末
  • 元正天皇:在位715~724年
  • 盤古帝:中国神話の天地開闢の創世神。実在の人物ではない。

地元の方のお話

当社は小櫃川流域の広大な田んぼを見下ろす台地の南端に位置しています。

地元の方が、「往古は、当社から低地の仲間に対して、農業や狩猟の支持を出していた」と仰っていました。

写真図鑑

拝殿

本殿

本殿背後の小祠と御神木

鳥居

一之鳥居

二之鳥居

三之鳥居

狛犬

境内社

境内の由緒書に、境内神として、大杉神社、疱瘡神社、淡島神社、厳島神社、阿夫利神社、水神社、日枝神社、五柱、金毘羅神社の十三柱が記載されています。

六社神社

疱瘡神社、稲荷神社、大杉神社、金毘羅神社、淡島神社、愛宕神社が祀られています。

社殿左の小祠郡

日枝神社

その他の石祠、石碑

手水舎

史料殿

ご神木

境内風景

参詣路右手の「率土神社南古墳」

5世紀後半~6世紀初頭に作られた、直径36m、二弾構築の帆立貝式古墳です。

お正月の光景

参拝順路

行き

帰り

基本情報

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

『千葉県神社名鑑』抜粋

祭神
埴安姫命(はにやすひめのみこと)

由緒沿革
創建年代など不詳だが、棟牌に「延宝六年三月吉日御神殿修復前朱雀四代領征夷大将軍源家綱公世話人関庄兵衛多田兵庫多田惣右衛門」とあり、また「明和五年戊子年仲秋吉日御神殿修復塗変金物願主世話人多田庄蔵小野忠七石井源蔵」とある。

『神道大系 神社編 18』抜粋

P10

率土神社縁起

現、袖ヶ浦町に属する神納村の率土神社の縁起で、同神社に所蔵されている。天竺摩伽陀国の盤古帝の后であった埴安姫は、やがて七人の太子や従者を引きつれて、日本の播磨国飾磨郡に到着し、後に東国を鎮めるために上総国望陀郡の飯富の里にたどり着き、さらに隣の神納の地に宮殿を建て、そこに移り住んだという。そしてその埴安姫命を祭神とするのが、率土神社であるという。成立の年次は記されてはいないが、従来知られていなかったことを記す、極めて貴重な新史料である。最近発見の最重要の古文献である。印度マカダ国の大王が、后や王子らと共に日本に飛来して熊野神宮の神となったことが、熊野本地譚に記されている。それは「神道集」や「御伽草子」に記されているものであるが、話そのものは平安時代からあったと考えられる。この率土神社縁起には、天平などの奈良時代の年号しか出てこない。だから現存のものが作製されたのは中世頃としても、その原形となったものは平安時代に成ったものではないか、とも考えられる。しかし正確なことは後考にまたなければならない。

『袖ケ浦町民俗文化財調査報告書 1 (昭和地区の民俗)』抜粋

P80

(前略)

率土神社の「縁起」の原文は、『袖ヶ浦町史』の資料編に全文が翻刻されているので、ここではその内容の粗筋を以下に示しておきたい。

ここに坦安(はにやす)の縁起をたずねみるに、天竺摩伽阤国の盤古帝の后であられる。盤古帝は、性格がよくなかったので国が乱れていた。そのため、隣国の帝によって、盤古帝と后、七人の大子(たいし)、それに家臣の大朝臣(おおのあっそん)清麻呂といった一族郎党が船に乗せられて国外へ追放された。三十九カ月間漂流して、播州飾磨(しかま)郡にたどり着いた。それを元正天皇がお聞きになって、養老二年正月二十一日に、山科教房を勅使として遣わされた。教房は盤古帝と対面して、何故にやってこられたのかと尋ねると、盤古帝は、われは月氏摩伽阤国の官長で、辰旦(中国)へ下向し、本朝を見たくてやってきたので、このことを天皇にお伝え下さい、と答えられた。教房は帰って、天皇にこの旨を告げると、天皇は盤古帝を迎えるために、山科左中将資成を遣わした。天皇は、盤古帝と対面された後、盤古帝のために新殿を造られてそこへお遷しになられた。

盤古帝の后は、盤古帝に、わたしは七人の大子を連れて関東へ下向し、そこで社を見立て、末永く民を守りたいのです、といわれた。それを聞かれた盤古帝は、御心にまかせなさい、と答えられた。そして、清麻呂を呼んで、この旨を元正天皇に奏上するようにいわれた。清麻呂が宮中に参上して奏上すると、天皇はいたく感じ入られ、橘諸門朝臣岡本民部少安重と宮崎中将藤原朝臣義教を召されて、盤古帝の后と七人の大子のお供をして関東へ下向するよう命ぜられた。また、天皇は、盤古帝の后の徳をたたえて、神名として天豊媛命(あめのとよひめのみこと)を贈り、さらに諡号(贈り名)として率土明神坦安尊(はにやすのみこと)を贈る旨の勅文を清麻呂にお渡しになられた。これを請けて、盤古帝の后は大変お喜びになられた。

盤古帝の后と七人の大子は、清麻呂、原義教、橘朝臣安重らと、その他の家臣たちを従え、養老二年四月下旬に都を出発して、勢州(伊勢国)より船に乗った。そして、六月初午の日に上総国望陀郡に着いた。そこで上陸したが、食べものがなくなり、空腹になった。清麻呂が草刈をしている者をみつけて、食べるものを持っているかと問うと、その者が薔薇の葉に麦香煎を載せて献上した。盤古帝の后が、その者に、この郷の名を問うと、飯富といいますと答えた。それを聞いて后は、汝が手向ける穀物で空腹を満たし、すでに飽く(満足する)なり、これよりこの郷の名を飽富郷といいなさい、といわれた。そうして後、后は清麻呂と義教に家臣を従えてこの地に止まるようにいわれた。后は、安重を先頭にして、他の女官らを連れて、この所(神納)に至った。この郷の庶人たちは、后を貴人として迎え、新しい社を造ってお遷しした。それで、后は安重を召されて、わたしはこの郷に住むことにし、わたしが亡くなった後もずっと民を守護しましょう、といわれた。また、汝はこの郷によき名を付けなさい、と命じられた。安重は、この命を受けて、神納と名付けて后に申し上げたところ、大いに喜ばれた。やがて時がたち、天平二年十月一日に六三歳でお亡くなりになられた。七人の大子をはじめ、家臣や女官たちがこの所に集い、なげき悲しんだ。庶人たちも悲しんだ。后の遺体を石棺に納めて葬った。

橘朝臣安重は、后の亡くなられたことを天皇に奏上するために、この所の多田出雲という者をお供にして、天平二年十一月十二日に上洛した。その時、元正天皇から聖武天皇の御世になっていたので、聖武天皇に奏上した。天皇は、これを聞かれて、先帝が贈られた諡号のとおり、率土明神坦安尊と号しなさい、といわれた。そして、次は后の墓所を守りなさい、といわれた。安重は、五位を改めて、四位に任ぜられて、下向した。正月九日の当社の祭りは、后の御誕生日である。

『御由緒』抜粋

御由緒

御社名
率土神社(そっとじんじゃ)

御祭神
埴安姫尊(はにやすひめのみこと-土の神のち産業の守護神)

御相殿
倉稲魂命 大己貴命の二柱

境内神
大杉神社 疱瘡神社 淡島神社
厳島神社 阿夫利神社 水神社
日枝神社五柱 金毘羅神社
の十三柱

御創建
天平三年(七三〇)と伝えられる

(中略)

社名の由来
出典は史經の「溥天之下莫非王土 率土之浜莫非王臣」によるもので気宇雄大な社名である

其の他
当社は旧神納村の総鎮守で 隣の式内社飫富神社と特殊な関係にある
当社の縁起書は古代の当地を物語るものとして貴重である
当社の神楽囃と神楽の面は文化財に指定されている
当社は耳の疾患に霊験がある
当社の周辺は古墳の集落地で前方後円墳などがあり 附近一帯から土器類が出土している

Webサイト

書籍

  • 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
  • 『千葉県印旛郡誌』印旛郡 編 1913年
  • 『袖ケ浦市史基礎資料調査報告書 4』袖ケ浦市教育委員会 1994年
  • 『神道大系 神社編 18』神道大系編纂会 編 1990年
  • 『袖ケ浦町民俗文化財調査報告書 1 (昭和地区の民俗)』袖ケ浦町民俗文化財調査会 編 1987年
  • 『市民のための袖ケ浦の歴史』袖ケ浦市教育委員会 編 1992年
  • 『日本地理志料 巻之1-3』村岡檪斎 (良弼) 著 明35-36

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