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香取神社│千葉市中央区院内

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目次

千葉市中央区院内の香取神社の概要

香取神社は、885年(仁和元年)に里人により勧請された、千葉市中央区院内に鎮座する神社です。

千葉市内で十本指に入る古社で(当サイト筆者調べ)、千葉氏の亥鼻山築城以前から鎮座していました。

当社の境内社(祠)がお寺として発展、明治期以降に「千葉神社」となりました。現在は立場が逆転し、当社は「千葉神社」の境外末社となっています。

地元では「香取さま(かとりさま)」と呼ばれています。

祭神

  • 経津主命(ふつぬしのみこと)

当社が「経津主命」を祀るため、「千葉神社」も相殿神に「経津主命」を祀ると言います。

創建・沿革

885年(仁和元年)に里人により勧請、「経津主命」を祀ることから、「香取神宮」の勧請(または孫勧請)と思われます。

もと「小門口」(妙見寺の裏門。佐倉藩の婦人などの退出門)の近くに鎮座していましたが、1892年(明治25年)の大火で消失、現鎮座地に移動しました。この火事で、吾妻町・本町・市場町・千葉寺にかけて417戸が全焼したと言います。

また、『千葉市風土記 : 郷土史読本』に、「古いお宮は、現在の社殿より北方にあったと推定される」とあります。

「千葉神社」との関係

当社境内社が「千葉神社」に

往古、北道場(道場北ではない)から「千葉神社」にかけての一帯が当社の境内で、「香取山(かんどりやま)」と呼ばれていました。

平忠常(たいらのただつね)の頃、「香取山」の一角に、千葉氏によって祠が建てられました。これが「北斗山金剛授寺」というお寺となり、千葉氏の庇護を受けて発展、「香取山」の一部が割譲され、明治期にもとの神道の社に戻り「千葉神社」となりました。

この祠の当初の祭神について、次のように伝わっています。

  • 妙見様の御分霊(=分身)…北斗七星・北極星を菩薩と同一視した神様
  • 倭文神鎮星…星神「香々背男(かがせお)」を鎮静した倭文神「建葉槌命(たけはづちのみこと)」のことでしょう

「鹿島神宮」「香取神宮」と似ている?

当社と「建葉槌命」の祠に関して、「鹿島神宮」「香取神宮」の摂社と比較すると、よく似た関係にあることがわかります。

社(祭神)付随する社(祭神)地域
鹿島神宮(武甕槌神)高房社(建葉槌命)茨城県鹿嶋市
香取神宮(経津主神)高房神社(建葉槌命)香取市香取
香取神社(経津主神)千葉神社前身の祠(建羽槌命)千葉市中央区院内

「千葉神社」の御神輿

「千葉神社」の例祭神輿渡御の際、御神輿は上部の鳳凰を付けずに神社を発します。

そして先ずは「香取神社」に立ち寄り鳳凰を付けたあと、各地を渡御します。帰りはその逆で、「香取神社」で鳳凰を外したあと、「千葉神社」へ帰還します。

「千葉神社」の地主神である「香取神社」の神域では遠慮する、ということのようです。

写真図鑑

境内外観

社殿

樹木で隠れ分かりにくいですが、流造の本殿の前に参拝所(参拝スペース)があります。

狛犬

手水舎

基本情報

社号香取神社
ご祭神経津主命
住所千葉市中央区院内2丁目17−34

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

境内由緒書「香取さま」 抜粋

千葉神社 境外末社

香取さま

国土安泰
家内安全

『社寺よりみた千葉の歴史』抜粋

P34 三 香取神社
(院内二丁目一七の三五)

勧請
現在の院内公園(大庭、祭礼場と呼ばれていた)の東側道路をへだてて、民家と民家の間にはさまれた、方六尺くらいのお宮があります。これが香取神社で経津主命を祀っています。仁和元年(八八五)九月廿五日、村人によって勧請されたと伝えられています。

(中略)

当時、この地に居を構えていた豪族およびその隷属民に信仰されたものでしょう。その豪族は、おそらく中臣系の人であったと想像されます。伝承によると、円墓地山の稲荷社を守護神として、覚算の再興した伽藍山歓喜院を別当寺としていたと考えられます。また、寒川神社宮司粟飯原家に伝わる、延宝八年(一六八〇)千葉妙見社神職粟飯原右京の署名がある「千葉妙見社元由」という縁起書をみると「妙見社神体倭文神鎮星」とあり、この倭文神はシドリノカミ、シズリノカミと呼んで、天羽槌雄命、天建羽槌命と申し、機織の祖神にして、倭文氏の遠祖です。香取・鹿島の両神宮に、倭文神を祀った摂社高房社があるように、初め星の宮といわれた伽藍山歓喜院または北斗山金剛授寺歓喜院も、香取神社の摂社として祀られたものではないかと考えられます。また、『更級日記』にでてくる”まのの長者”も、あるいはこの辺に居を構えて、機織の神たる倭文神を信仰したのではないでしょうか。

香取山
現在の千葉神社境内および宇香取山の地を合わせて、その昔は香取山と呼ばれたと老人から聞いています。したがって、香取神社は、千葉神社の地主の神であると考えられています。それで、鳥居も香取神社の鳥居であるからと、千葉神社では通行しません。
千葉神社の神興は、香取神社の前では対面して置かれ、ほかの社の前では、その社を背後にして置かれます。また千葉神社の神興は、香取神社までは孔雀をつけずにゆき、この社で始めて孔雀をつけて渡御します。還るときも、この社で孔雀をとりはずし帰ります。これみな、地主神に対する遠慮であるとしています。
「千学集」に、元龍二年(一五七一)十一月望、佐倉妙見宮にて邦胤が元服の時、千葉妙見社に家臣安藤左衛門を代参させ、香取神社へも賽銭として鳥目百疋を捧げたとあります。このように、妙見社と同列にみることからしても、妙見社に対して特別のお宮であることが考えられます。
古いお宮は、現在の社殿より北方にあったと推定されます。今は埋められている香取池の脇から、御手水の井戸跡と思われる遺構が発掘されていますが、ここから香取池に流れ込んでいたと考えられます。
この神社の氏子は、現在香取神社前を通る道路(旧道)と千葉神社道(国道)に沿った家々が神社との関係が深く、氏子であったと推定される節々があります。そうして門前(院内町)の旧家は、旧道と千葉神社道に沿って多く残っています。

『千葉神社HP』抜粋

御由緒

(前略)

千葉氏の三代目である平忠常(たいらのただつね)の頃、千葉の地にお祀りされていた香取神社の境内:香取山(かんどりやま)の一画に、千葉氏によって妙見様の御分霊(=分身)をお祀りする祠が建てられました。(年代不詳)
この祠に、眼の病気を患った第66代・一条天皇が眼病平癒の願を掛けたところ、即座に病が完治したことから、一条天皇は薄墨の御綸旨と「北斗山金剛授寺」という寺号を贈って感謝のお気持ちを示されました。
忠常公は、賜った貴い寺号に見合うようにと伽藍一切を整備し、自らの次男・覚算(かくさん)を大僧正に就け、長保2年(西暦1000年)旧暦9月13日、「北斗山金剛授寺」を中興開山しました。

(後略)

参考:千葉神社HP 千葉神社について
https://www.chibajinja.com/about/goyuisho/index.html

Webサイト

書籍

  • 『社寺よりみた千葉の歴史』和田 茂右衛門 著 1984年
  • 『千葉市風土記 : 郷土史読本』千葉日報社編集局 編 1981年
  • 『千葉市誌』千葉市誌編纂委員会 編 1953年
  • 『千葉市史 第3巻』千葉市史編纂委員会 編 1974年

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