手置帆負命(たおきほおいのみこと)/彦狭知命(ひこさしりのみこと)

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手置帆負命(たおきほおいのみこと)と彦狭知命(ひこさしりのみこと)の概要

手置帆負命(たおきほおいのみこと)と彦狭知命(ひこさしりのみこと)は、神代、天照大神(あまてらすおおかみ)の岩戸開きに貢献した「工匠の祖神」で、それぞれ讃岐(香川県)と紀伊(和歌山県)の忌部氏の祖神と言われています。

天照大神のもとで祭祀を司る天太玉(あめのふとだまのみこと)率いる「忌部五部神(いんべ-いつとものおのかみ)」の二柱で、『古語拾遺』では常に二柱セットで登場し、大神の御殿(みあらか)の造営や、神器の製作などを行いました。

両神の孫は、祖父神同様、神武天皇の御殿の造営を行うと共に、天富命と共に千葉県に移住、開拓に努めました。

手置帆負命と彦狭知命は現在、南房総市沓見(くつみ)と同市宮下の莫越山神社(なこしやまじんじゃ)にて、主祭神として祀られています。

二柱の活躍

手置帆負命(たおきほおいのみこと)と彦狭知命(ひこさしりのみこと)の活躍を、『古語拾遺』に描かれている内容を中心に列挙していきます。

天照大神(あまてらすおおかみ)の宮を造営

天照大神が石窟に籠り世界が暗闇に包まれたのを憂いた神々は、大神を外に連れ出すための策を練り準備をします。

そのなかで、手置帆負と彦狭知は、天御量(あめつみはかり。大小の秤)を使い、大小の峡谷の樹を材として、瑞殿(みづちのみあらか。宮殿のこと)を造営し、また、御笠・矛・盾を作ります。

神々の楽しそうな声が気になり岩戸を空けた大神は、両神が造営したこの瑞殿に遷されます。

岩戸の脇に新設された宮殿はこのような雰囲気か?
写真は安房神社境内

皇孫の矛を作る

天照大神・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、自らの皇孫に、瑞穂国(地上のこと)の王になることを命じます。
その際、神宝である八咫鏡と草薙剣と、それに準ずる矛・玉を授けます。

ここで出てくる矛は、手置帆負と彦狭知が作った上述の矛と同一のものであると言われています。

矛とはこのようなものであったか?
(illust ACより)

天孫降臨に随従

大神は、天孫を地上に降臨させる際、太玉命と彼の「諸部(もろとものお)の神」を随従させます。

「諸部(もろとものお)の神」は、太玉命の率いる神々の事で、そのなかに手置帆負と彦狭知も含まれていたようです。

天太命のもとで、天照大神に多大な貢献をした両神の活躍は以上で終わります。このあとは、彼らの孫の話に移ります。

天孫降臨の地と言われる高千穂峡
(photo ACより)

神武天皇の宮を造営

時代は神武東征の直後、太玉命・手置帆負・彦狭知 三神それぞれの孫の世代の話になります。
太玉命の孫は天富命(あめのとみのみこと)と言い、手置帆負・彦狭知の孫は名前が出てきません。

天富命のもと、手置帆負と彦狭知 二神の孫は、斎斧(いみをの)・斎鋤(いみすき)を使い、山の材木を採り、正殿(みあらか)を造りました。

『延喜祝詞式』の祝詞(下記)に書かれているように、硬い岩盤まで地下を掘り下げ巨大な柱を立て、高天原に千木が届くほどの高さの美豆(みづ)の御殿(みあらか)を造りました。

『延喜式』8(祝詞) 祈年祭条〔3〕抜粋

皇神敷坐、下都磐根宮柱太知立、高天原千木高知、皇御孫命御舎仕奉

参考:國學院大學デジタルミュージアム

祖父神(手置帆負・彦狭知)が天照大神の宮を造営したのと同様、孫たちは神武天皇の宮を造営したわけです。

時期岩戸隠れ神武東征後
舞台高天原地上
リーダー天照大神大神の子孫→神武天皇
忌部リーダー太玉命太玉命の孫→天富命
宮殿造営者手置帆負と彦狭知手置帆負と彦狭知の孫
世代が変わっただけで、相関関係が同じである

彼らの子孫は、紀伊国名草郡(なぐさのこおり)御木(みき)、麁香(あらか)に移り住みました。材木を伐る忌部のいるところが御木、殿(あらか)を造る忌部のいるところが麁香と呼ばれます。

大きな柱に千木が天に届くほどの高さの宮殿はこのような建物で合ったか?
写真は安房神社拝殿

総国開拓、矛竿製作

手置帆負の孫が、天富命に従い総国(ふさのくに)に上陸、開拓を行うと共に矛を作ります。

この逸話には彦狭知の孫は出てきません。ですが、後述の通り彦狭知の孫も総国に来ていたようです。

手置帆負の子孫の一部は讃岐国に渡り、朝廷に竿をたくさん納めました。

讃岐忌部氏手置帆負命の末裔
紀伊忌部手置帆負命・彦狭知命の末裔

これまでの逸話は『古語拾遺』とその関連資料を背景に記述してきましたが、以降は神社系資料と実地を基にした記述となります。

手置帆負と彦狭知を祀る莫越山神社の創建

手置帆負と彦狭知の孫に、天富命に随従した、天小民命(あめのこたみのみこと)と御道命(おみちのみこと)という人物(神)がいました。

彼らは、祖神 手置帆負・彦狭知を祀るために、神武天皇元年(紀元前660年)、莫越山神社(なこしやまじんじゃ)を創建しました。現在、南房総市の丸山川沿いには、上流下流に二社の莫越山神社が鎮座しています。

『古語拾遺』に登場する「手置帆負と彦狭知の孫」と天小民命・御道命は同一人物(神)か? 讃岐忌部・紀伊忌部との関連性は? などは不明です。

丸山川の流域は、豊かな平地とそれを取り囲む深い森により成り立っています。建築や物造りを得意とする手置帆負・彦狭知の子孫には、この地はうってつけだったのでしょう。

南房総市東部の衛星写真。
丸山川は南北方向に蛇行しながら流れたあと、東南の太平洋へ注ぐ。
2つの赤いバルーンが莫越山神社。
川の上流下流に2社鎮座している

手置帆負と彦狭知を祀る神社

莫越山神社│南房総市宮下

社殿の左背後の山が莫越山

莫越山(渡度山)の麓に鎮座、手置帆負命と彦狭知命を主祭神としています。

莫越山神社│南房総市沓見

主祭神に手置帆負命と彦狭知命を、境内社に小民命と御道命を祀っています。

蘇我比咩神社│千葉市中央区蘇我町

千葉市の式内社 蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)に手置帆負命講の石碑が建っています。相方の彦狭知の名前がありません。あえて手置帆負だけを崇拝する理由が見当たらないので、地元の技術者が工匠神を参拝した、というよりは、この地に住む手置帆負の末裔の方々が祖神をお祀りした、とする方が自然でしょうか。

余談ですが、千葉市の海側には日鷲を祀る風習があった雰囲気があります(調査中)。

参考

上記のWeb サイトのほかに、下記を参考にさせていただきました。

  • 『古語拾遺』斎部広成 編 807年
  • 『古語拾遺・高橋氏文 』安田 尚道、秋本 吉徳 編注 2010年
  • 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
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