南房総市宮下の莫越山神社(なこしやまじんじゃ)
概要
莫越山神社(なこしやまじんじゃ)は、神武天皇元年(紀元前660年)、天小民命(あめのこたみのみこと)・御道命(おみちのみこと)がそれぞれの祖神である手置帆負命(たおきほおいのみこと)・彦狭知命(ひこさしりのみこと)を祀るために創建した、南房総市宮下に鎮座する神社です。
『延喜式』神名帳に記載のある「安房国六座 朝夷郡四座 莫越山神社」の比定社の一つで、明治期から終戦期まで郷社に列格していました。
ご神体は、神社の230mほど背後にそびえる渡度山(とどやま)、別名 莫越山(なこしやま)で、山中には奥宮(別名 渡度神社、奥の院)が鎮座しています。莫越山を拝むための遙拝所のあった場所に建てられたのが、現在の莫越山神社だと言われています。これに関連してか、当社の境内社として「渡度神社」「山神社」の名前が記載されています。
莫越山・神社の周辺からは、7世紀の祭祀跡のほか、勾玉形・丸玉形などの土製模造品や土器など、古代祭祀の痕跡が見つかっています。
参拝日記
千葉市~印旛界隈ではお目にかかれない、「神奈備山」を祀る神社です。社名の通り、背後の「莫越山」(なこしやま)をご神体としています。
一方、社殿では、天富命の部下である技術神、手置帆負命・彦狭知命を祀っています。本来、山を祀っていた社に、忌部の神様を合祀したかたちでしょうか。
当社鎮守の杜は、莫越山を望む田んぼのに島のようにぽつんと浮かんでいます。大きい神社ではありませんが、地元の方に綺麗に維持されているようです。
山中の奥宮も気になったのですが、今回は諦めました。山の麓に先祖代々住んでいるという方曰く、「奥宮は年に一度、集落の皆で掃除をする。それ以外に行くことはない。道中は草ぼうぼうだから、登るのはお勧めしない」とのことです。
創建・由緒
神武天皇元年(紀元前660年)、天富命に随従した天小民命(あめのこたみのみこと)・御道命(おみちのみこと)により創建されました。
祭神は、それぞれの命の祖神である手置帆負命(たおきほおいのみこと)・彦狭知命(ひこさしりのみこと)。相殿に、天小民命・御道命・大稲興別命が合祀されています。
背後にそびえる渡度山(とどやま、とどさん、止々山)、別名 莫越山(なこしやま)をご神体としており、山の中に奥宮が鎮座しています。「奥宮は筒井山にありそこから神輿が出た」という記述もありますが、他に文献が見つかりません。
手置帆負命・彦狭知命は、天日鷲命同様、天太玉命に率いられた神で、二柱ともに神殿建築や道具制作などの工匠を司り、天照皇大神の岩戸開きの際にも活躍しました。
平安時代の『延喜式』神名帳に記載の「安房国六座 朝夷郡二座 莫越山神社」の比定社の一つで、明治期から終戦期まで郷社に列格していました。
祭神
手置帆負命(たおきほおいのみこと)、彦狭知命(ひこさしりのみこと)
境内神社
八幡神社・渡度神社・八雲神社・浅間神社・山神社・天神社
由緒沿革
「莫越山神社記」「莫越山神社往昔記」並びに古文書等によれば、神武天皇辛酉元年の創立。延喜式内安房六座中の一と称せられ、古来より領主等の崇敬篤く、天正一九年七月二六日、領主里見義康より丸本郷その他に二貫文の地を賜わり、慶長一八年には里見忠義が社殿を再興、また元和四年の水帳には神田若千を載せる。特に工匠の祖神として一般庶民の尊信を受ける。明治五年村社に列し、大正二年四月八日神饂幣吊料供進神社、同三年六月三〇日会計規定を適用すべき神社に指定され、昭和一九年六月一五日郷社に列す。昭和初期、宮下地内から六、七世紀ごろの屋根瓦などが出土し、往時の史実を偲ばせる。
神事と芸能
二月の節分に、神前境内(往古馬場といわれる)で大藁火焚を行ない、竹のはねる音につれ一同ヤンヤと声を発し、その年の無病息災を祈る。
莫越山神社の名前の考察
莫越山は信仰したくなるような神体山ではない?
「〇〇山神社」のように山の名を冠した神社は、「神体山を崇める山岳信仰」と関連付けたくなります。しかし、実際に参拝してみて、当社はそういった神体山崇拝とは異なる印象を受けました。
というのは、莫越山は、神体山として崇めたくなるほど「特段に目立つ山ではない」のです。
下記は莫越山周辺の風景ですが、どれが莫越山か分かるでしょうか? 実は筆者も、参拝後わずか一週間しか経っていないのにわからなくなってしまいました…。
どれかが莫越山である
どれかが莫越山である
そもそも莫越山の名前の由来は?
ここで、周辺地形をGoogle map の衛星写真からチェックしてみましょう。1枚目が莫越山近隣、2枚目はさらに上空から見たものです。赤い大きなバルーンが莫越山(渡度山神社とある)で、その奥の山から丸山川が南を目指し流れています。川沿いには田んぼが広がっています。
神社から見ると、莫越山の背後は山が広がっている
莫越山から先は、人が住めないような深い山がかなり遠くまで続いている
山のすぐ北東の小さな沖積平野がまだ形成されていなかった時代、丸山川に面する肥沃な平地の北のどん詰まり、つまり、平野と山の「地理的遷移点」が莫越山だったように思われます。
この地を最初に開拓した古代の人は、「人間界はここまで」「この山から先は定住するには厳しいぞ」という思い込めて、
な越しそ = 越してはならない
莫越 = 越す莫(なか)れ = 越してはならない
という意味で、「莫越山」と名付けたのではないでしょうか。
莫越山崇拝
上記のように、莫越山は「崇拝対象としてのモニュメント」ではなく「禁足地の開始点」という地理的立ち位置から、古代人の崇拝の対象となったのではないでしょうか。実際、千葉大学の神尾教授・森谷助教授らによる昭和43年・45年の調査で、莫越山の南側に三か所の古代祭祀遺跡が確認され、勾玉・丸玉などが発掘されているそうです。
「禁足地の開始点」と「工匠の神」を同時に祀る理由は特になく、祀る対象が混在した理由は、そこに至った忌部が偶然、手置帆負命・彦狭知命チームの一族だったから、という単純なものでしょうか。
写真図鑑
ご神体 渡度山(とどやま、止々山)または莫越山(なこしやま)
社殿
莫越山を拝むための遙拝所のあった場所に建てられたのが、莫越山神社だと言われています。
覆屋に囲われ姿が見えません
鳥居
社殿の背面少し左に神体山の莫越山が見えます
摂社、末社
境内社のなかに、渡度神社・浅間神社・山神社の名前が見えます。山に関連するこの三社は、莫越山と関連があるのでしょうか。
八幡神社
小祠、石碑等
手水舎、社務所
狛犬
1827年、江戸橘町の石工 伊賀屋定吉と地元宮下の渡辺久左衛門の倅(せがれ)により奉納されたそうです。腕が太く全体的にがっしりしています。
南房総市指定文化財 有建「莫越山神社永夜灯」
1845年、忍(おし)藩主 松平下総守(元 宮下村領主)奉納の石灯籠です。
市指定文化財の見事なもので、上から順に、麒麟、鳳凰、龍、唐獅子が彫ってあります。
左下に、右上を見上げている龍の顔が見える。
常夜灯
1921年奉納の石灯篭。
ご神木
遠景
田んぼの中に浮かぶ鎮守の杜。
麓に神社の白い鳥居が見える。
参拝順路
詳細情報
社号 | 莫越山神社 |
ご祭神 | 手置帆負命(たおきほおいのみこと)、彦狭知命(ひこさしりのみこと) |
境内社 | 八幡神社、渡度神社、八雲神社、浅間神社、山神社、天神社 |
住所 | 南房総市宮下27 |
その他 | ■館山市立博物館 宮下莫越山神社<丸山> http://history.hanaumikaidou.com/archives/6322 ■館山市立博物館 莫越山神社遺跡 -丸山町宮下- http://history.hanaumikaidou.com/archives/7931 ■神奈備山の景観構成(第7回日本土木史研究発表会論文集1987年6月) 笹谷 康之、遠藤 毅、小柳 武和 著 https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1981/7/0/7_0_141/_pdf/-char/ja |
参考
上記のWeb サイトのほかに、下記を参考にさせていただきました。
- 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987
- 『房総の杜』千葉県神社庁房総の杜編纂委員会 著 2005年
- 『古語拾遺』斎部広成 編 807年
- 『大麻と古代日本の神々』山口博 著 2014年
- 『日本各地を開拓した阿波忌部の足跡 : 古の『古語拾遺』の記憶. 安房国編』林 博章 編著 2006年