潮来市釜谷(いたこし かまや)の甕森神社(みかもりじんじゃ)の概要


甕森神社(みかもりじんじゃ)は、創建年不詳、潮来市釜谷(いたこしかまや)に鎮座する神社です。
明治期から終戦期まで村社に列格していました。
現地では、「おもり」と呼ばれているようです。
祭神
祭神として次の神様が祀られています。
- 武波槌命
漢字は少し違いますが、「天津甕星(あまつみかぼし)」を征伐した、「建葉槌命(たけはづちのみこと)」のことでしょう。
創建の謂れ
日本武尊の創建?
『茨城県神社誌』によると、日本武尊が当地に「水甕」を遺(のこ)し、これを村人が奉斎したのが当社の謂れとされます。のちにその社地が「甕森」と呼ばれたそうです。
この逸話には、祭神の「武波槌命」は出てきません。
どなたかの東夷征伐による?
境内由緒書によると、どなたかが夷征征伐の際、当地を軍の重要な夜営地としたそうです。このことが、「甕森」の地名の由来になったと伝えられています。
当地で陣をひいた武人はどなたでしょうか? 当社祭神と「甕森」の地名から、武人は、「天津甕星」を成敗した「武葉槌命」と考えるのが一番ストレートに思えます。
当地は「建葉槌命」が治めたのか?
境内由緒書に、「祭神武波槌の大神は、食産の道を広め」「御祭神武波槌の大神の御代に」と記載されています。
祭神武波槌の大神は、食産の道を広めその道徳を偲び、村人達は、十二月一日に裸足で参拝する風習があり、祭事にもその型をとどめてあり、特筆されるものであろう
御祭神武波槌の大神の御代に我等先人等の足跡を深く思い浮かべ、脈々と流れる興村の心が現在まで継承されている事に愛郷の念を抱きながら、美しき郷里に住める事を深く誇りとするものであります。
当地一帯は、「建葉槌命」が治めていた時期があるようです。
ところで、「建葉槌命」は別名 倭文神(しとりがみ)と言って、倭文織(しどり)の殖産を行ったと言われています(『茨城の史跡と伝説』)。
P118 香々背男と宿魂石<那珂地方>
(前略)
倭文(しず)の里で、里の女たちに倭文織(しどり)を教えていた建葉槌(たけはづち)はオサを捨てて起き上り、甲胃に身をかためて石那坂に馳せ向かい、今まさに高天ヶ原の雲を突き破ろうとする香々背男の岩を、金の沓(靴)をあげて蹴飛ばした。
(後略)
当社近隣には「麻生」という地名や「大麻神社」という社があり、麻布造りの跡を偲ばせます。
建葉槌が住んでいた倭文の里は、案外、当地かもしれませんね。
「甕森」と「甕山」
当社「甕森神社」と鹿島神宮の由来とされる「甕山」(現在は石碑のみ)をつなぐと、冬至の日の日の出ラインになるそうです。
また、鹿島神宮「本宮」(大生神社)と「跡宮」をつなぐと、やはり、冬至の日の日の出ラインになるそうです。
画面中央上部に「甕森神社」と「大生神社」がある。
「甕森神社」は、「甕山」を守る「甕守」から来ている、というのはどうでしょうか?
写真図鑑
拝殿




拝殿の彫刻








本殿







鳥居





境内社
『茨城県神社誌』に、境内神社として、金刀比羅神社(金山彦命)・疱瘡神社(大己貴命)・稲荷神社(倉稲魂命)・三峰神社(伊諾命、伊冊命)が記載されています。
疱瘡神社


石祠、男根型石像






石祠あsがsg


稲荷神社





三峰神社


小祠、石碑等






手水舎




ご神木


参拝順路
南からの参拝





北からの参拝







基本情報
社号 | 甕森神社 |
ご祭神 | 武波槌命 |
住所 | 茨城県潮来市釜谷415−1 |
参考
下記を参考にさせていただきました。
抜粋
甕森神社(おもり)
法人(旧村社)
【祭神】武波槌命
【境内神社】金刀比羅神社(金山彦命)疱瘡神社(大己貴命)稲荷神社(倉稲魂命)三峰神社(伊諾命、伊冊命)
【祭祀】春祭 三月十五日(祈年祭・昭和二十五年以降春祭と云ふ。秋祭 旧九月九日(お宮参りといひ、氏子崇敬者新殺を赤飯に炊上げて各戸奉献。例祭十二月一日酒盛祭五月二十七日(当日氏子代表者、年寄等参列して祭典を斎行。年寄等の御豊楽の謡を奉奏する)
【由緒沿革】創立不詳。日本武命東征の砌、此の地に憩ひ遊ばれし時、一水瓮を遺留した。よって村はこれを奉載して鎮斎した。神地を甕森と云ふ。大元年丙年再造営、正徳二年玉辰年修造(棟札)毎歳祭十二月一日。明治十四年四月村社に列格。大正三年十一月十六日(第五二六号)供進指定、昭和二十七年九月二十九日宗教法人設立。同二十九年四月本殿・拝殿修営。産業の繁栄、婦人の守護神として霊験顕著。同四十年八月本殿を銅板に葦替へ、同十二月一日下遷宮祭。同十二月二十八日竣功。
【神紋】左三つ巴
P118 香々背男と宿魂石<那珂地方>
(前略)
倭文(しず)の里で、里の女たちに倭文織(しどり)を教えていた建葉槌(たけはづち)はオサを捨てて起き上り、甲胃に身をかためて石那坂に馳せ向かい、今まさに高天ヶ原の雲を突き破ろうとする香々背男の岩を、金の沓(靴)をあげて蹴飛ばした。
(後略)

甕森神社由来
その昔、東夷征伐の砌、軍隊の夜営の地とし重きをなし、甕森の地名の由来になったとも謂われます。
祭神武波槌の大神は、食産の道を広めその道徳を偲び、村人達は、十二月一日に裸足で参拝する風習があり、祭事にもその型をとどめてあり、特筆されるものであろう
古代を知りて未来に伝う言葉
台地への坂を登ると、釜谷の集落が一望にでき、甕森神社の境内からも散在する集落の一部が展望され、朝夕に白く光る北浦湖の太古の神秘にふれながら、又、或る時は小鳥の囀る大生野が原の平地林に、点在する幾多の古墳を仰ぎ見る時、御祭神武波槌の大神の御代に我等先人等の足跡を深く思い浮かべ、脈々と流れる興村の心が現在まで継承されている事に愛郷の念を抱きながら、美しき郷里に住める事を深く誇りとするものであります。
(後略)
書籍
- 『茨城県神社誌』茨城県神社誌編纂委員会 編 1973年
- 『常陸国風土記』秋本吉徳 訳 2001年
- 『鹿島神宮』東 実 著 1968年
- 『茨城の史跡と伝説』茨城新聞社 編 1976年
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