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大生神社│茨城県潮来市大生

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茨城県潮来市(いたこし)大生(おおう)の大生神社(おおうじんじゃ)の概要

大生神社(おおうじんじゃ)は、創建年不詳、茨城県潮来市(いたこし)大生(おおう)に鎮座する神社です。

当地に移り住んだ多氏が、氏神「多神社」(奈良県)の御霊を当地に迎えたのが当社の謂れと言われています。

「鹿島神宮」の祭神は当社から奉遷したため、鹿島の本宮(元宮)と言われています。

江戸期以前に建立の本殿は、茨城県の指定文化財に登録されています。

明治期から終戦期まで郷社に列格していました。

祭神

主祭神

  • 建御雷之男神

配祀神

  • 八大龍神

創建の由来

「大生神社」の謂れは、奈良県磯城郡田原本町多(しきぐん たわらもとちょう おお)の「多神社(おおじんじゃ)」の御霊を当地に迎えた「大生宮」にはじまると言われています。

神武天皇の皇子「神⼋井⽿命(かむやいみみのみこと)」の後裔のひとつに多氏がいます。多氏の崇拝する社に『延喜式』に記載される「多坐弥志理都⽐古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)」があり、現在の「多神社」に比定されています。「多神社」では、多氏の先祖「神⼋井⽿命」を祭神に祀っていま、

多氏の当地移住に伴い、氏神「多神社」の御霊を遷し「大生宮」が祀られました。これが当社「大生神社」の謂れと考えられます。

ところで、当サイト筆者は、上述の流れから、当社「大生神社」の本来の祭神は「神⼋井⽿命」だったと考えています(現在は「武甕槌神」)。

当地を平定した「建借馬命(たけかしまのみこと)」とその子孫の那珂国造も神⼋井⽿命の後裔ですね。

なぜ「鹿島神宮の本宮」と呼ばれるのか?

まずは、次の年表をご覧ください。

746年、鹿島社の卜占(ぼくせん)技術者に過ぎなかった中臣氏が祭祀者に昇格すると、その20年後、「鹿島社」「大生宮」の御霊が大和の春日に奉遷されます。806年には、「大生宮」の御霊は大生に帰還し、翌年、鹿島に遷座されます。

大生宮の御霊は次のように旅をしたことになります。

大生宮 → 春日社 → 大生宮 → 鹿島社

このような流れがあるため、「鹿島神宮」にとって「大生神社」は「本宮」「別宮」にあたるわけです。

「多神社」勧請の時期について

「多神社」を勧請した時期を大同元年とするケースがあります。しかしこれでは話の筋が通りません。

該当箇所の原文を見たところ、大同元年に起きた事象と捉えず、文末の付記と捉えた方が自然に思えます。

漢文

人皇五十一代平城天皇之神宇東夷乱虐正三位左大将室貞卿蒙勅命引率官軍東征則千常陸国行方郡嶋崎在陣干時為戦場加護棒春日大明神幣帛於営中来斎宮戌子連当宜中臣常光依勅宣祭祀之大生大明神是也惟時大同元年十一月十四日也因茲大生大明神之祭祀毎歳十一月十四日十五日十六日二夜三日代々斎宮並当禰宜勤行之大生宮者南部自大生邑大明神遷座故号大生宮

書き下ろし文

人皇五十一代・平城天皇の御宇、東夷乱虐す。
正三位左大将・室貞卿、勅命を蒙(かうむ)りて官軍を引率し東征し、則(すなは)ち常陸国行方郡嶋崎に在陣す。時に戦場となす。
春日大明神に加護を祈り、幣帛(へいはく)を営中に奉る。
中に斎宮の戌子連当宜(いぬこのむらじ とうぎ)・中臣常光来たり、勅宣に依りてこれを祭祀す。
大生大明神これなり。
惟(おも)ふに時は大同元年十一月十四日なり。
これに因(よ)りて、大生大明神の祭祀、毎歳十一月十四・十五・十六日の二夜三日、代々斎宮ならびに当社禰宜これを勤行す。
大生宮は、南部の大生邑より大明神遷座し、故に大生宮と号す。

現代語訳

第51代・平城天皇の時代、東国で反乱が起きました。
正三位・左大将の室貞卿(むろのさだきょう)が勅命を受けて官軍を率い東征し、常陸国行方郡の嶋崎に陣を敷きました。
その折、戦いの加護を願って、陣中で春日大明神に幣帛をささげて祈りました。
そのとき、斎宮から、戌子連(いぬこのむらじ)の当宜(とうぎ)と中臣常光が勅命により祭祀を執り行い、ここに大生大明神をお祀りしました。
日付は大同元年(806年)11月14日です。
以来、大生大明神の祭りは、毎年11月14・15・16日の二夜三日にわたり、代々の斎宮と当社の禰宜が勤めてきました。
「大生宮(おうのみや)」というのは、南の大生の邑から大明神をこの社にお迎え(遷座)したことに由来します。

祭神が「武甕槌神」の理由

上述の通り、往古、「大生宮」の御霊は「鹿島宮」に遷ったわけですが、現在の「鹿島神宮」およびその摂社・末社の祭神に、「大生宮」の本来の祭神と思われる「神⼋井⽿命」が見当たりません。

長い年月の間に失われたのか? そもそも「春日社」から来たのは別の神だったのか?

当サイト筆者は、そもそも「春日社」から「大生宮」を経て「鹿島社」に奉遷されたのは「武甕槌神」だったと考えています。

上述の表を見ると、807年(大同二年)に「大御神」なる神の分霊が「大生宮」に分けられていますが、この方は「武甕槌神」でしょう。そのため、現在の祭神も「武甕槌神」となっているわけです。

「「鹿島神宮」の祭神が「武甕槌神」となるのは9世紀以降」と言われていますが、時期的にも矛盾がありません。

鹿島の「本宮」と「跡宮」

よく似た名前の、鹿島神宮「本宮」(大生神社)と「跡宮」。この二つをつなぐと、冬至の日の日の出ラインになるそうです。

両社は関連が深く、「大生神社」の大嘗祭は「跡宮」から物忌様が奉仕、執行していました。

ところで、近隣の「甕森神社」と「甕山」(現在は石碑のみ)をつなぐと、やはり、冬至の日の出ラインになるそうです。

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