長熊廃寺跡(高岡寺跡)│佐倉市長熊

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佐倉市長熊の長熊廃寺跡(高岡寺跡)

長熊廃寺跡は、佐倉市長熊にある「寺の跡」で、奈良・平安時代、ここに奈良と交流のある「高岡寺」という寺があったと考えられています。すぐ隣の高岡(現在の白金)からは500近い住居跡が確認されており、この一帯を中心に周辺地域へ仏教や当時の最新技術がもたらされたそうです。

寺の跡というと、蜘蛛の巣にまみれ朽ち果てたお堂を想像するかと思いますが、この寺跡は建物すらありません。あるのはひと気のない雑木林、背の高い樹々の隙間から降り注ぐ陽光に照らされた、二つの神社と「塔の址」などの石碑のみ。この石碑が、古代そこに寺があったことを感じさせる唯一の証拠となります。

現在、廃寺跡の両端に愛宕神社と五良神社が鎮座しています。佐倉市と酒々井町の境に位置するため、前者は酒々井町、後者は佐倉市になります。

本寺との関連は不明ですが、見学する際に見学、参拝するのをお勧めします。特に愛宕神社は大きさ、形ともに迫力がある素晴らしい建築物です。両社については下記をご覧ください。

長熊廃寺跡の発見と発掘の流れ

本廃寺跡の発見と発掘のストーリーがなかなか面白いです。

京成電鉄の情報誌を読み、脚を運び、「問題資料」を持ち帰った立正大の学生はまさにグッジョブ。一方、一度目と二度目の調査の結果がまったく異なるという点には首を傾げざるをえません。「大規模な寺の跡だ!」と意気込んで指定史跡にした県は自ら「実際は小さい寺だった…」ことを証明することになります。取り下げはしないのでしょうか。

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郷土史家が「布目瓦」を発見

終戦後間もなくの1947年、佐倉市本町在住の郷土史家 目等 清 氏が、佐倉市上代付近の畑(山中?)より「布目瓦」を多数発見し、同じく郷土史家の北詰 栄男 氏のもとへ持参。
『京成文化』(沿線情報誌。現『京成らいん』)に瓦の事が取り上げられる。

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立正大学の学生が「瓦塔」を発見

記事を読んだ立正大学の学生が現地を踏査、「瓦塔」の破片を採集し大学に持ち帰ったところ、たちまちのうちに「問題資料」に取り上げられる。

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1951年 一度目の調査

1951年より、立正大学のチームが発掘を実施。「塔」や「金堂」を有する大規模な伽藍配置の寺であると想定。

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県指定史跡に

1967年に「長熊廃寺跡」として県指定史跡に指定される。

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1986年 二度目の調査

1986年より千葉県文化財センターが再調査し、1951年の説を否定。建っていたのは 3.6m×5.4m ほどの「お堂」一基であったと想定。

長沼廃寺跡の遺構:何が建っていたのか?

1951~1957年の調査

昭和26年(1951年)から昭和32年(1957年)まで、立正大学史学研究室 石田茂作 博士を中心とするグループが調査を行いました。

金堂跡と講堂跡等が確認され、西に金堂、東に講堂がおかれた、白鳳時代の法起寺式の伽藍配置を持つ寺であると結論づけられました。

1986年の再調査

昭和61年(1986年)より千葉県文化財センターが再調査を行いました。

基壇(きだん。建物の基礎の部分)1基、土壙(どこう。お墓のこと)5基、竪穴住居跡2軒、溝5条が確認されました。

建物跡である基壇は一つだけで、瓦の集中する場所もこの基壇以外には確認されませんでした。そのため、上述の金堂と講堂の存在が否定されました。

この基壇の規模は東西 12.6m、南北 9.4m、東西に長い大型の長方形で、建物の本体部分である身舎(もや)の規模は2×3間(3.6m×5.4m)ほどと予測されます。そのため、本廃寺跡は、瓦塔を安置した瓦葺き建物一棟の「お堂」を有する「小規模な寺」であったと考えられています。

印旛郡内で、基壇を有する瓦葺の寺は、木下別所廃寺跡とこの長熊廃寺跡の二つのみとなります。

長沼廃寺跡の遺物:何が出土したのか?

瓦、土器、瓦塔等が出土し、これらの造られた時期から、本寺は8世紀初頭の創建で、9世紀前半までは存在していたことが示唆されました。

瓦の文様の様式などから、奈良県桜井市の大和山田寺、茨城県石岡市の常陸国分寺、茨城県結城市結城廃寺との関連性が指摘されています。

7点の墨書土器のひとつに、「高罡寺」と銘がありました。「罡」は現在の「岡」にあたるため、「高岡寺」となります。

高岡遺跡群(高岡大山遺跡、高岡大福寺遺跡、高岡谷津遺跡、高岡新山遺跡)

本廃寺跡西隣、現在の白金地区には、古代、同地域がかなり大きな集落であったことを匂わせる大規模な「高岡遺跡群」(高岡大山遺跡、高岡大福寺遺跡、高岡谷津遺跡、高岡新山遺跡)が見つかっています。

長熊廃寺が栄えていた奈良・平安時代の竪穴住居跡は合計470軒、掘立柱建物跡は234軒が確認されています。後者は倉庫や居宅の跡と考えられ、なかには国府や郡衙(ぐんが。群の役所)などの官衙(かんが。役所)を模した建物配置のものも見つかっています。

世帯数の多さや役所の痕跡などから、この地は当時の印旛周辺で最も栄えた集落の一つであったと考えられています。

長沼廃寺跡は「高岡寺」で、「高岡」は印旛一帯の中心地か?

廃寺跡から見つかった土器に「高岡寺(高罡寺)」と書かれ、隣の集落の名前が「高岡」(現在は白金)であることからも、本廃寺が「高岡寺」であったことが推察されます。

高岡寺は当時の日本の中心、奈良と交流がある先進的な構造のお寺でした。そしてそのすぐ脇には、かなり多くの人々が住み、蔵や役所があった可能性も指摘されています。

佐倉市の公式資料では、奈良・平安時代の佐倉を「長熊廃寺を中心に仏教の普及や当時の最新技術がもたらされた地域」(原文ママ)としています(『佐倉市文化財保存活用地域計画(案)』)。

現在は一切人影のない雑木林ですが、実際に訪れ「ここが最新技術の中心地だったのか…?」と感慨にふけるのも面白いものです。

古代東海道「鳥取駅(ととりのえき)」は長熊近隣にあったのか?

古代、8世紀初めから771年の駅路で東北を目指す際、佐倉市を経由していた考えられています。三浦半島から富津付近へ上陸し、東京湾沿いを北上、「河曲駅(かわわのえき)」と「鳥取駅(ととりのえき)」を経由して印旛沼の東へ向かい、茨城や東北を目指すルートをとりました。

古代の律令制では、16km ごとに「駅家(えきか)」が設置されていました。駅には馬屋を置き、5~20頭の使用可能な馬を常にストックしておく必要がありました。

Google map で千葉駅と長熊廃寺跡の直線距離を測ると 17.7km とでます。「河曲駅」が千葉駅周辺にあったと仮定すると、上述の人口の多さや役所の痕跡などから、「鳥取駅」は長熊廃寺周辺にあったと考えたくなります。長熊地区右手の「馬橋」の集落名もこの説を後押ししそうです。

長熊廃寺跡の写真

道案内

酒々井町本佐倉の愛宕神社の鳥居をくぐり、260mほど歩いた林の中にあります。

詳細情報

社号長熊廃寺
由緒・歴史
住所佐倉市長熊260
その他■佐倉市HP 長熊廃寺跡
https://www.city.sakura.lg.jp/soshiki/wadakominkan/4/2416.html

■千葉県HP 長熊廃寺跡
https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p411-40.html

参考

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