愛宕神社│酒々井町本佐倉

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酒々井町本佐倉の愛宕神社

力強い社がとにかく魅力的な神社です。巨大な屋根を有する社殿の迫力にとにかく圧倒されますが、よく見ると彫刻は繊細。これらが背の高い樹々から降り注ぐ優しい光にチラチラと照らされるさまは、まさに異界。酒々井町の神社のなかで「屈指の建造物」「最も優れた建造物」と評されています。人影のまったくない雑木林の中に、こんな建物があって良いのかと勿体ない気持ちにさせられます。

無格社ですが、本佐倉城で有名な本佐倉地域の鎮守です。

もとは千葉氏の創建と考えられ、この地に存在した「愛宕山文珠寺」に属し、「将軍地蔵」とも呼ばれていました。

奈良~平安時代に印旛周辺の中心地だったとされる「高岡寺」の跡地「長熊廃寺跡」の両脇には、本社と五良神社二つの神社がかなり近い距離に鎮座しています。

創建・ご祭神

千葉氏による創建、同氏と深い関わりがあると考えられています。ただし、屋根の家紋は九曜紋ではなく巴紋です。

神仏混交時代には、この地に存在した「愛宕山文珠寺」(後述)に属し、「将軍地蔵」とも呼ばれていました。「将軍地蔵」は、全国の愛宕神社で祀られている「勝軍地蔵」と同義でしょうか。

ご祭神は、加茂建角命、火具土命、将軍地蔵です。

加茂建角命は、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)でしょうか。印旛~千葉市近辺でこの神様を祀っている神社はかなり稀だと思われます。各地の加茂神社系のHPを見ると、加茂氏、八咫烏(やたがらす)、馬の神様などのキーワードが出てきます。本社に祀られていると思われる将軍地蔵(後述)も馬に乗っているようです。

将軍地蔵

酒々井町のホームページ「将軍地蔵の話」に、
”かちう(甲冑)をたいし、せいりうとう(青竜刀)を御持馬上のさいしきの像也”
とあります。”さいしき”が、”祭式”なのか”彩色”なのか分かりません。

ともかく、本社には、”甲冑を身にまとい青龍刀を持ち馬に乗った将軍”が祀られているのでしょう。

愛宕山文珠寺

愛宕山文珠寺は、かつて、愛宕神社から北へ 200m ほどの場所にあった真言宗醍醐寺三宝院末の寺です。中世には佐倉五か寺の一つに数えられるほど大きな寺でしたが、1833年(天保四年)の大暴風雨に際し大破してしまったため(1856年の時点で廃寺)、本佐倉の吉祥寺に合併、仏像なども同寺に引き継がれました。

この場所は、奈良~平安時代に印旛地域の仏教の発信地であった、高岡寺の所在した長熊廃寺跡に隣接しています。時代は違えど、この集落は古くから仏教色の強い地域だったのでしょうか。

神社写真

社殿 ~酒々井町神社のなかで最も優れた建造物~

社殿は周辺より一段高くなっており、その全面に石が積まれていますが、これは箱式石棺の遺材とのことです(後述)。

社殿は、欅(けやき)材を用いた明治時代初期のものと推定され、流造りの屋根と彫刻を含め、神社としては「酒々井町屈指の建造物」(『酒々井町史』)、「酒々井町の数ある神社のなかでも最も優れた建造物」(『酒々井町の寺社』)と評されています。

箱式石棺の遺材で造られた石垣

本社の周りは周辺より一段高くなっています。1987年の『佐倉市長熊廃寺跡確認調査報告書』(二度目の長熊廃寺跡の調査の報告書)に、周囲には 2mの溝が巡っており、社殿の正面には箱式石棺の遺材が並んでいる、とあります。

現在、2mの溝はないようですが、箱式石棺の遺材で造られた石垣は見ることができます。この遺材がどこの古墳から来たものかはわかっていないそうです。

石灯篭・手水舎

鳥居

昔は丹塗り木造だっとありますが、現在は白い石造りの両部鳥居です。

写真では周りの樹々が大きいため分かりづらいですが、実際行ってみるととても大きな立派な鳥居であることがわかります。

摂社、末社

参拝順路

鳥居から社殿まで、両脇を樹々に挟まれた鬱蒼とした道を230mほど歩きます。

詳細情報

社号愛宕神社
ご祭神加茂建角命、火具土命、将軍地蔵
境内社
由緒・歴史
神紋
住所印旛郡酒々井町本佐倉376
(酒々井町本佐倉字南大堀)
その他

参考

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