市原市武士(たけし)の建市神社(たけちじんじゃ・たけしじんじゃ)の概要


建市神社(たけちじんじゃ・たけしじんじゃ)は、光仁天皇の御代(770~781年)に創建された、市原市武士(たけし)に鎮座する神社です。
『三代実録』(901年)に「建市神社(たけいちのかみのやしろ)」と記載される、国史現在社です。
明治期から終戦期まで郷社に列格していました。
当社はもともと、現在地の北約1kmにある大明神山という鬱蒼とした小山の頂上付近に鎮座していましたが、明治初年に、現鎮座地にあった「鹿島神社」に合祀されました。
祭神
祭神として次の神様が祀られています。
- 武甕槌命(たけみかづちのみこと)…明治初年に合祀した「鹿島神社」の祭神か
- 大宮姫命(おおみやひめのみこと)…明治十五年に合祀した「大宮神社」の祭神か
- 大日孁尊(おおひるめのみこと)…明治四十四年に合祀した「日宮神社」の祭神か
本来の祭神
「建市神社」本来の祭神は、次の神様だったであろうという説があります。
- 高市県主(たけちのあがたぬし)や高市氏の祖神
参考『市原市史 別巻』『房総の古社』
旧鎮座地(奥宮・元宮)から現鎮座地(里宮)へ遷座
旧鎮座地(奥宮・元宮)
建市神社の旧鎮座地(奥宮・元宮)は、大字武士字神戸(現・市原市武士)に所在する海抜約92mの大明神山(鹿島山、高峯山。特にその頂上は人見塚とも)の頂上付近にあります。
現在は、深い森の中に倒壊した社殿といくつかの小祠が残されているだけで、祭祀は行われていないようです。


旧鎮座地では、社殿の位置が時代によって若干移動した可能性があります。伝承によれば、往古は現在の社殿の後方に広がる原野に本殿があり、社殿も現在よりはるかに大規模であったと言います。
ところで、往昔の大明神山の老樹が茂る姿は、海上や川を行く舟の目印になっていたと伝わります。しかし、維新期の御用材伐採や大正期の大伐採により、『市原郡誌』が編纂された大正5年には殆ど禿山となっていたようです。

『房総の古社』P193より抜粋

Google Earthをキャプチャーした
現鎮座地(里宮)
現鎮座地(里宮)は、新堀川に広がる水田集落の一画にあります。本稿で取り上げるのは、こちらの神社になります。
明治初年、この場所にもともとあった「鹿島神社」に「建市神社」が合祀されました。現在も鳥居の扁額には「正一位鹿嶋大明神」と記されています。
社号碑と鳥居扁額で社名が異なるため、理由を知らない方は混乱してしまいそうです。


遷座後も奥宮で奉祀か?
下記の年表を注意深く見ると、里宮へ遷座した後も、奥宮の奉斎はかなり長い間続いていたであろうことがわかります。
| 年代 | |
|---|---|
| 明治初年 | 大明神山上の社殿が火事で焼失したため、「鹿島神社」に御霊を遷し合祀される |
| 明治十五年八月 | 「大宮神社」を本社に合祀す |
| 明治三十八年九月 | 奥宮再建す |
| 明治四十四年十一月七日 | 「日宮神社」本社に合祀す、同日山林二段三畝歩を取得す |
| 大正二年三月二十二日 | 山林九段四畝五歩を取得す |
| 1979年 | 奥宮が「大宮神社」と呼ばれる(参考『祖神・守護神』) |
明治初年の遷座後も、同三十八年に奥宮を再建、明治・大正時代には二度にわたり、恐らく奥宮周辺と思われる山林を購入しています。
加えて、1979年出版の書籍に「奥宮(大宮神社と呼ぶ)」という記載が見え、現在も「日宮大権現」の石祠が建っています。
ともすると、「大宮神社」と「日宮神社」が合祀されたのは、里宮ではなく奥宮だったようにも思えてきます。


参考書籍に登場する「建市神社」が、現鎮座地と旧鎮座地のどちらを取りあげているのかを表にまとめました。時代が古い資料ほど、旧鎮座地のことを示している傾向があることが見て取れます。
表を見る
| 年代と資料名 | 建市神社の鎮座場所 |
|---|---|
| 1916年(大正5年)編纂の『千葉県市原郡誌』 | 旧鎮座地 |
| 1927年(昭和2年)編纂の『千葉県君津郡誌 上巻』 | 旧鎮座地 |
| 1929年(昭和4年)編纂の『大日本史 志一』 | 旧鎮座地 |
| 昭和13-15『神道大辞典 第2巻』 | 現鎮座地 |
| 1940年編纂の『神社大観』 | 現鎮座地 |
| 1963年編纂の『神社名鑑』 | 現鎮座地 |
| 1968『路傍の神様 : 道祖神のふるさとをたずねて』 | 現鎮座地 |
| 1974年の『日本の民俗 12』 | 旧鎮座地 |
| 1975年出版の『房総の古社』 | 現鎮座地 |
| 1976年出版の『古代 = Journal of the Archaeological Society of Waseda University (61)』 | 旧鎮座地 |
| 1977年出版の『タブーの研究』 | 旧鎮座地 |
| 1977年出版の『全国神社名鑒 上巻』 | 現鎮座地 |
| 1978年出版の『生きている民俗探訪千葉』 | 旧鎮座地 |
| 1986年編纂の『市原市史 中巻』 | 現鎮座地 |
| 1987年編纂の『千葉県神社名鑑』 | 現鎮座地 |
「国史現在社」の「建市神社」
「国史現在社」とは、『延喜式』「神名帳」には記載されないものの、六国史に記載される古社のことを言います。
当社は、上総国に六社ある「国史現在社」の一社で、六国史のひとつ『三代実録』(901年)に「建市神社(たけいちのかみのやしろ)」と記載されています。
沿革
沿革を見る
- 光仁天皇の御代(770~781年)に創建
- 元慶八年(884年)、従五位下を授かる
- 901年編纂の『三代実録』に、「建市神社」の名が記される
- 往古、「建市大明神」と称する
- 明治元年3月、太政官達により「建市神社」と改称する
- 明治初年、大明神山上の社殿が火事で焼失したため、「鹿島神社」に御霊を遷し合祀される
- 明治4年7月、太政官達により郷社に列せられる
- 明治十五年八月、同所無格社「大宮神社」を本社に合祀す
- 明治十五年十月、拝殿建設宅地五畝四歩を取得す
- 明治三十八年九月、奥宮再建す
- 明治三十九年四月、勅令第九十六號に依り神饌幣帛料供進神社に指定せらる
- 明治四十四年十一月七日、同所無格社「日宮神社」本社に合祀す、同日山林二段三畝歩を取得
- 大正二年三月二十二日、山林九段四畝五歩を取得す
- 1797年、大宮神社と呼ばれる
写真図鑑
拝殿








本殿





鳥居






狛犬




同市内の「姉崎神社」の狛犬と瓜二つです。どちらも昭和4年10月の建立なので(参考『市原の狛犬』)、兄弟なのかもしれません。


境内社
浅間大神


子安大権現



稲荷神社?



境内の様々な小祠







仏像、お地蔵さん


手水舎


境内風景

参拝順路





基本情報
| 社号 | 建市神社 |
| ご祭神 | 武甕槌命(たけみかづちのみこと)、大宮姫命(おおみやひめのみこと)、大日孁尊(おおひるめのみこと) |
| 住所 | 市原市武士205 |
参考
下記を参考にさせていただきました。
抜粋
建市神社(たけちじんじゃ) 旧郷社
祭神
武甕槌命(たけみかづちのみこと)大宮姫命(おおみやひめのみこと)大日孁尊(おおひるめのみこと)
由緒沿革
『三代実録』によると、光仁帝の御代の創立で、元慶八年七月一五日、上総国正六位建市神社従五位下を授かる。延喜年中、式外社と定められ、往古班幣の礼に預かる。中古、建市大明神と称し、明治元年三月太政官達により建市神社と改称する。
同四年七月太政官達により郷社に列せられる。
授上総国正六位上建市神社従五位下
五 建市神社
建市神社は市西村大字武士字神戸に在り。境内百坪土地高峻にして、略長方形をなし社殿の左右及び後方は山林にて僅の松と椎との木あり。麓の左右は開堅畑なり。往古は松椎等の大木鬱蒼として繁茂し、昼尚ほ小暗き森林なりしが維新の際に御用材を伐り出し、後大正二年に至り區民の拂下によりて大略伐採し、今は殆ど禿山となれり。社殿も過去にありては大なるものにして、現在の殿社の後方曠漠たる原野は本社本殿の跡にして、往昔は老樹鬱々舟行の標となりとし伝ふ。今布目瓦の地中に埋没せるもの甚だ多し、里谷呼んて瓦石といふ。
イ 由緒
建市神社は人皇第四十九代光仁天皇の御宇創始せられたるものにして武甕槌命を祀る、元慶八年甲辰(皇紀一五四四年)七月十五日『授上級國正六位上建市神社從五位下』(三代実録)従五位下を授けられ延喜年中式外の官社と定められ往古より班幣の禮に預る、中古建市大明神と称す、明治元年三月廿八日太政官達に依り建市神社と改称し、明治四年七月四日太政官達に依り郷社に列せらる、明治十五年八月同所無格社大宮神社を本社に合祀す、同年十月拝殿建設宅地五畝四歩を取得す、明治三十八年九月奥宮再建す、明治三十九年四月勅令第九十六號に依り神饌幣帛料供進神社に指定せらる、明治四十四年十一月七日同所無格社日宮神社本社に合祀す、同日山林二段三畝歩を取得し大正二年三月二十二日山林九段四畝五歩を取得す。
ロ 建市神社に開する由緒片集
房総志料三云、市原郡に武士村と云ふあり、彼土高くして舟行の標となる、山上に古祠あり、建市神社といふ、按ずるに武士は建市を誤れるなり。
(後略)
ハ 祭儀と宝物
毎歳十月十五日祭典を執行す神職供進使及び氏子総代皆之に列なる。宝物としては領主榊原氏代々信仰厚く年月不詳木太刀二振を獻納せられ、明治二十九年四月日清戦役戦利品二箇を下賜せらる、なほ水晶原鑛のままなる量目六十匁のもの一箇あり。
ニ 神社に関する伝説
い 人見塚
神社の後方に人見塚といふあり博へ日ふ人皇第十二代景行天皇の御代日本武尊東夷御征伐の爲め此地に御巡臨小高き塚に御着あらせらる、里の良人等尊を警衛し奉る、尊御感浅からずして「此塚に到りて良人を見たり」と依つて時人社後の丘阜を人見塚と稱べり。
ろ 盜賊守護神
往昔凶賊あり村家に入りて財を掠めて去る、衆人出でて捕へんとす、社林に匿れて逮捕すること能はず、仍ち神の匿す所となす、是より賽客漸く絶つに至れりと。
(三二)建市神社
(前略)
明治初年、火災のため社殿が焼失して鹿島神社に遷祀したという。鹿島神社の鳥居は天明元年(一七八一)造立。庚申塔は寛文九年(一六六九)と貞亨四年(一六八七)造立とがある。
建市(たけし)神社(旧郷社)
祭神 武甕槌命
建市神社は、現在、集落の南東にある鹿島神社に合祀されている。建市神社の旧地は武士字神戸の地で、大明神山と呼んでいる。大正5年発行の「市原郡誌」には「境内百坪土地高峻にして、略々(ほぼ)長方形をなし、社殿の左右及び後方は山林にして、僅(わずか)の松と椎との木あり。─中略─社殿も過去にありては廣大なるものにして、現在の殿社の後方広漠たる原野は本社本殿の跡にして、往昔は老樹鬱々舟行の標となりとし伝ふ。今布目瓦の地中に埋没せるもの甚だ多し、里俗呼んで瓦石といふ。」とある。
この最後の記述にあるように、この周辺には古瓦が散布する。『須田勉/古代地方豪族と造寺活動』によると、武士寺から出土した八葉複弁蓮花文鐙瓦は8世紀の第II4半期のものと考えられるという。この廃寺は武士古墳群をいとなんだ在地豪族の造営と推定されている。
武士古墳群の主墳とみなされている人見塚古墳は、主軸長約50mの前方後円墳で、前方部より約40m地点に長軸と同方向に建市神社が所在する。(鈴木仲秋/房総の泥棒神/房総文化第12号)。この神社は古墳を斉きまつったものと推定される。(後略)
P74
10 盗人の守護神
青木神社・建市神社奥宮等
(前略)
次に、千葉県市原市にある建市神社。ここの祭神は、鹿島神宮の祭神と同じ武の神の武甕槌命この神社の本殿から一キロほど離れた小山の上にある奥宮(大宮神社と呼ぶ)を盗人の宮と呼んでいる。この奥宮のあるところは、五井海岸が見渡せる景勝の地だが、山一帯は一面の笹藪で、追われた泥棒がこの山に逃げ込むと、追手の目をくらますことができたといわれる。そのため泥棒仲間では、盗人の守り神として大変奉されたと、『房総志料』にも出ている。
(後略)
Webサイト
書籍
- 『千葉県市原郡誌』千葉県市原郡教育会 編 大正5年
- 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
- 『市原郡誌』千葉県市原郡教育会 編 1972年
- 『市原郡誌』千葉県市原郡教育会 編 1989年
- 『市原の歴史と文化財』市原市教育委員会 1983年
- 『市原市史 中巻』市原市教育委員会 編 1986.3
- 『房総の古社』菱沼勇, 梅田義彦 著 1975年
- 『生きている民俗探訪千葉』1978年
- 『祖神・守護神 (東京美術選書 ; 21)』川口謙二 著 1979年
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