佐倉市角来(かくらい)の八幡神社の概要
八幡神社は、創建年不詳、佐倉市角来(かくらい)に鎮座する神社です。
誉田別命 (ホンダワケノミコト)が御祭神、日枝神社、子安神社、御嶽神社が合祀されいます(『昔日佐倉拾遺録』)。
西印旛沼の南、聖隷佐倉市民病院の所在する台地の東端に鎮座する、角来村の鎮守の社で、明治期から終戦期まで村社に列格していました。
拝殿や背の高い樹々はもちろん、佐倉ののどかな田園風景や国立歴史民俗博物館を見下ろせる眺望も大変目を楽しませてくれる、素晴らしい神社です。
かつて、佐倉藩の処刑場、江原刑場へ向かう罪人は、当社の前を避け裏手の低地を通ったと伝えられています(『『成田参詣記』を歩く』)。
角来の坂と佐倉藩主堀田家に関するエピソード
本社の目の前、角来の坂と佐倉藩主堀田家に関する下記二つのエピソードが伝わっています(『昔日佐倉拾遺録』内田 理彦 著 2016年、『佐倉惣五郎と宗吾信仰』鏑木 行広 1998年)。
佐倉藩主 堀田正信(ほったまさのぶ)
一つ目は1660年、佐倉惣五郎事件で有名な、佐倉藩主 堀田正信(ほったまさのぶ)の話です。正信は、幕政批判の諫書(かんしょ)を提出し無断で江戸から佐倉に帰ってしまいます。お供も連れず一人「平澄」という馬に乗り帰路を急いでいたのですが、角来の当社の前に差し掛かった際、疲れ切った馬が倒れ息絶えてしまいました。人々は、これを惣五郎の祟りと噂しました。現在ここには、馬の供養のための小さな馬頭観音が置かれています。
老中 堀田正亮(ほったまさすけ)
二つ目は1746年に佐倉藩主に任命された老中 堀田正亮(ほったまさすけ)が佐倉を下見に訪れた際の話です。角来村の坂道、当社の前を差し掛かった正亮の前に50歳くらいの老人が現れおじぎをして正亮を佐倉城まで案内しました。城に着いた夜、気になった正亮があの老人は何者だったのかと家臣に問うのですが、この老人の姿は正亮にだけ映り、他の家臣達には見えていなかったことが判明し、佐倉惣五郎の霊だったのでは、ということになります。
正亮は惣五郎のことを心にとめていたのか、のちに角来に前述の馬頭観音を、将門町に「口の明神」を造営したそうです。
創建・由緒
創建年代および由緒不詳、明治期から終戦期まで村社、誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神とする神社です。
八幡神社 旧村社
祭神
誉田別命(ほんだわけのみこと)
由緒沿革
創祀年代は明らかでないが、正徳五年記の当社縁起によって、元禄一六年本殿・拝殿・鳥居を改築したことが知られる。
写真図鑑
社殿
1715年(正徳5年)の縁起に「1703年(元禄16年)本殿等改築」とあるそうです(『昔日佐倉拾遺録』内田 理彦 著 2016年)。
鳥居
舌状台地の端、山の上の白い石造りの鳥居です。見上げた姿も美しいですが、急な階段を登り鳥居付近から見た佐倉の眺望も素晴らしいです。
1700年ごろは丹塗りの木の鳥居だったと記録があります(『佐倉市史料叢書 古今佐倉真佐子』佐倉市史編さん委員会、佐倉市 編集・発行 2017年)
かなり見晴らしが良く、四街道市の千葉敬愛短大やクリーンセンターも見える(後述)
摂社、末社
境内に菅原道真を祀る小祠があるそうですが(『昔日佐倉拾遺録』)、どれがそれなのか分かりません。
中央にあるのは御嶽神社の石碑
御神木、樹木、遊具、その他
参拝はあくまでも自己責任で
保存樹
八幡神社からの景色
境内風景
参拝順路
かなり遠くまで見渡せます。
詳細情報
社号 | 八幡神社 |
ご祭神 | 誉田別命 (ホンダワケノミコト)、日枝神社、子安神社、御嶽神社 |
境内社 | |
由緒・歴史 | |
神紋 | |
本殿の向き | |
住所 | 佐倉市角来1 |
その他 |
参考
- 『『成田参詣記』を歩く』(川田 壽 著 2001年)
- 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
- 『昔日佐倉拾遺録』内田 理彦 著 2016年