印旛姫之宮│佐倉市臼井田

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佐倉市臼井田の印旛姫之宮

印旛姫乃宮は、印旛沼(西印旛沼)の南、聖隷佐倉市民病院の建つ台地の北西端に鎮座しています。

「姫乃宮」だけに、ご祭神は伊邪那美命(イザナミノミコト)です。

この神社の特徴は何といっても男性器(男根)をかたどったプリっとした石像でしょう。女性器を模したと言われる台座の上に、天を向いて祀られています。

お宮の名前が「姫」なのになぜ男性器を祀るのか? なぜ松虫寺からご神体が勧請されたのか? 「印旛姫」とは誰か? など細かな謎が尽きない、小さいけれど魅力的な神社です。

創設

かつて存在した観光施設「印旛沼山荘」(後述)に隣接した場所に、佐倉城跡にあった「鹿島神社」の社と、松虫姫伝説で有名な「松虫寺」にあったご神体(後述)を勧請する形で創建されました。社は数年前に建て替えられ、現在の社は二代目。創建年代は、山荘落成以後、「印旛姫の宮奉納花火大会」開始以前とすると、1955~1966年のいずれかと考えられます。

『臼井千代田百科事典』には下記のようにあります。

『臼井千代田百科事典』

印旛姫の宮は印旛沼山荘に隣接し、祀られるようになったのは戦後印旛沼山荘が出来てからです。当初の社は佐倉城跡にあった鹿島神社を戦後払い下げを受け、ご神体は松虫寺から勧請されました。現在の社は二代目で数年前に建て替えられました。

松虫寺、松虫姫神社については下記をご覧ください。

神社写真

台地の端にある小さな神社です。1988年発刊の『印旛沼周遊記』(小川 元 著)には、鳥居と「木立の中の男根」という記載がありますが、どちらも現在は見当たりません。

社殿

近年創建された二代目の社殿です。

男根の石像

ソラマメのような可愛らしい形をした石像が、台座の上に天を向いて屹立しています。

『印旛沼周遊記』(1988年)に記されている男根像とセメント製の女陰の受け台というのはこれの事でしょう。男根像が昔からあったとすると、セメントの受け台は新しいのでしょうか?

石柱

石碑・石像・手水舎

社の左にある山王の石碑は、この地にもともと祀られていたもので、地元の人からは天神様と呼ばれているそうです(『臼井千代田百科事典』)。

ご祭神・ご神体・御本体

ご祭神・ご神体

ご祭神は伊邪那美命(イザナミノミコト)、ご神体は松虫寺から勧請されたものです。ちなみに、勧請元の松虫寺境内の松虫姫神社では、伊邪那美命は祀られていないようです。

このご神体を女神、太田大権現のご神体を男神として、年に一度、奇祭と評される祭礼が執り行われています(後述)。

以上が確定情報で、色々と不思議な点が残ります。ご神体とは何なのか? 松虫寺は、なぜ大事なご神体を、印旛の逆側、まったく地域の異なるこの地に勧請したのか? 佐倉城跡の鹿島神社のご神体はどうなったのか?

御本体

『臼井千代田百科事典』には、「ご神体」のほかに、「御本体」なる何かの記述があります。

「御本体」は、佐倉城ができた後、城内の女性に縁結び、寵愛獲得のご利益があるということで崇敬を集めていたようです。こちらが、現在残る男根の石像なのでしょうか?

『臼井千代田百科事典』には下記のようにあります。

『臼井千代田百科事典』

御本体は古来印旛沼浴岸住民の間に、印旛沼の守護神として、また五穀豊穣、安産子育ての神として祀られたが、後佐倉城が出来て以来城内奥向の女性の間に縁結びの神、ひいては殿の龍愛獲得の願をかける神として、ひそかに而(しかして)も熱心に信仰されていたと伝えられる。

佐倉市花火大会の名称は「印旛姫の宮奉納花火大会」だった

現在も夏に行われている佐倉市の花火大会は、会場を本社として「印旛姫の宮奉納花火大会」だった時期があります。

1966年、開催場所がこの地に移され、名称も本社の名を冠した「印旛姫の宮奉納花火大会」になりました。1969年には、千葉県初、関東一といわれた二尺玉が打ち上げられたそうです。

「佐倉市民花火大会」となった現在も、花火大会前には本社による安全祈願が執り行われているそうです(後述)。

花火大会名称
1956年~佐倉樋之口橋納涼大会
1966年~印旛姫の宮奉納花火大会
1978年~印旛沼花火大会
1989年~2004年佐倉・国際印旛沼花火大会
2007年~2019年、
2023年~
佐倉市民花火大会

姫の宮祭礼神前の儀 / 印旛姫の宮例祭(安全祈願祭)

【男神】太田熊野神社と【女神】姫乃宮神社による「奇祭」と表現される例祭が行われています。

往時はかなり盛大だったようで、太田熊野神社の「権現様」が届けられ「姫の宮祭礼神前の儀」が執り行われると、近在の善男善女数万が集い、大花火のなか夜通しで「姫の鈴」の妙音を鳴らしていたそうです。

花火会場が変わり「佐倉市民花火大会」となった現在も、打ち上げ前にこの「奇祭」に由来した「印旛姫の宮例祭(安全祈願祭)」が、佐倉ふるさと広場で行われています。

具体的に何をどうする儀式なのか大変気になるところですが、年に一度しか会えない印旛姫様と太田の権現様は、さしずめ印旛の織姫と彦星といったところでしょうか。

『臼井千代田百科事典』

印旛姫と言い、印旛沼山荘創設以来年々盛大な祭礼が行われている。例祭は8月15日、当日は同じく8月15日が大祭である佐倉市太田の熊野神社(祭神伊邪那岐命:いざなぎのみこと)通称太田権現様の御姿が届けられると同時に姫の宮祭礼神前の儀がとり行われる。当夜は全面の印旛沼も火の海と化すばかりに大花火が打ち上げられ、近在の善男善女数万が集い「姫の鈴」は夜通し妙音を立て続ける。

「権現様」が祀られている太田熊野神社は下記をご覧ください。

印旛沼山荘(印旛山荘?)

この地は印旛沼に面し沼を見下ろす絶好の場所にあるため、往時は、バンガロー、貸しボート、釣り場、農園、雑木林をそなえ、林間学校も開かれた、活気のある観光地だったようです。

山荘の大きは八帖一間。帖(じょう)は畳と同じ広さですので、そこまで大きくない建物だったようです。昔は下に降りる石階段があったようですが、現在は見当たりません。みやげ物屋もあり、「おたつ飴」(後述)という咳止めの飴を売っていたようです。

京成電鉄の社史に下記のようにあるため、同社が設立に関与しているようです。

年:昭和30年(1955)
月日:7月20日
事項:印旛沼山荘落成
年表種別:当社のうごき

『臼井千代田百科事典』にも貴重な記述があります。こちらを見ると、1955年の山荘落成前の1952年時点ですでに大変な活気があった様子が伺えます。

『臼井千代田百科事典』

印旛沼山荘のあった所はバンガローとも呼ばれていました。昭和27年(1952)発行の「臼井町名所旧蹟史」を見ると、総坪数約3千。県立印旛沼公園の表玄関として京成電鉄、臼井町観光協会、観光臼井開発会社の三社共立と書かれています。敷地の雑木林の中には2人用のバンガローが11戸建ち、貸ボートや釣り場を備えていました。この他に三反歩の丹波栗林での栗拾いやサツマ手掘りの出来る観光農園にもなっていて、林間学校の開かれる夏の時期ばかりでなく、収穫の季節にも賑わっていました。また、佐倉国際印旛沼花火大会の前身とも言える印旛沼花火大会の大会本部が置かれ、絶好の観覧場所としても知られました。この時、花火は川崎製鉄取水場近くの湖畔で打ち上げられました。

咳の神 お辰様

臼井城主 臼井興胤(おきたね)が幼少の頃、後見人の叔父 志津胤氏に謀殺されそうになったことがありました。このとき、乳母のお辰(阿多津)によって鎌倉へ逃げることができたのですが、お辰は追われる身となり、芦原に身を隠したところ咳をして追手に見つかり殺されてしまいました。その後、お辰は、地元で咳止めの神様「おたつ様」として信仰されることとなりました。

印旛沼山荘のお土産屋で売られていた咳止め薬「おたつ飴」は、この逸話からきているのでしょう。

現在、姫乃宮神社の台地を降り 600m ほど北西、臼井幼稚園の近くに「阿辰の墓」という碑が立っています。

ところで、佐倉市土浮でも、草むらに隠れていたところ咳をして追手に見つかり殺されてしまうという似たような話が伝わっています。こちらの主人公は駆け落ちした皇女で、「おわば様」と呼ばれ、やはり咳の神様として祀られているようです。

詳細情報

社号印旛姫之宮
ご祭神伊邪那美命(イザナミノミコト)
境内社
由緒・歴史
家紋
本殿の向き
住所佐倉市臼井田108-2
(旧 臼井田小笹台)
その他

参考

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