麻賀多神社本社コンテンツ
成田市船形字手黒の伊都許利神社(いつこりじんじゃ)の概要


伊都許利神社は、創建年不詳、印波國造 伊都許利命(いんばのくにのみやつこ いつこりのみこと)と大名持命(おおなもちのみこと)を祭神とし、伊都許利命の古墳を「信仰の対象」とする、成田市船形の神社です。
当社は、麻賀多神社 奥津宮(手黒社)の傍ら、伊都許利命の古墳と言われる公津原(こうづはら)古墳群第三十九号墳を背後に鎮座しています。
二柱目の祭神「大名持命」は大己貴命(オオナムチノミコト)と同神、つまり大国主命のことのようです。
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船形字手黒の「奥宮」と台方字稷山の「本社」については下記をご覧ください。
写真図鑑
参詣路と社殿




すぐ右手に伊都許利神社とお墓が








左下:古墳出土石
左:金属の石柱「千葉県指定史跡 公津原(こうづはら)古墳群第三十九号墳「伝初代印旛国造伊都許利命の墳墓」」


小祠の下に石材が置かれている


1987年以前の伊都許利神社
『千葉県神社名鑑』(1987年)に「伊都許利神社」の写真が掲載されています。
少し高くなった場所に立派な社が、左に「伊都許利神社…」と書かれた柱、右に「金比羅神社」の石碑が見え、石碑のみ、現在も残っています。
往時の伊都許利神社は、この場所に金比羅神社と合祀されていたのでしょうか?


左の柱に「伊都許利神社…」、右の石碑に「金比羅神社」とあり、現在は後者のみが残る


金比羅神社の石碑のみが立ち、高台の上には小祠が置かれている。
江戸後期の様子
『成田参詣記(成田名所図会)』(1858年(安政5年))の「麻賀多神社図」に、江戸後期の麻賀多神社 本社および奥津宮の様子が描かれています。




「印播國造塚」「金比羅」「手黒社」などの文字が見える。
かなり大きな山の上に金比羅神社があるように見える
創建・由緒
創建年不詳、印波國造 伊都許利命(いんばのくにのみやつこ いつこりのみこと)と大名持命(おおなもちのみこと)を祭神とする神社です。
伊都許利命墓の由緒書


伊都許利命は 神武天皇の皇子神八井耳命の八代目の御孫で 応神天皇の命を受けて 印旛國造としてこの地方を平定され 産業の指導などに多くのご功績を残されています。
その昔、日本武尊 ご東征の折大木の虚に鏡をかけ 根本に七つの玉を埋めて 伊勢神宮に祈願されました 命は「この鏡をあがめ祀れば永く豊作が続く」との教をきゝ その鏡をご神体として この地に稚日霊命(わかひるめのみこと)を(手黒神社)祀り、その後 ご霊示によって 七つの玉を掘り出して稚産霊命(わかむすびのみこと)(台方神社)を祀り 共に麻賀多眞大神として 里人の崇敬を指導されてから 益々豊年と楽土が続きました
(中略)
伊都許利神社々務所


伊都許利神社
古墳そのものを信仰の対象とします。お祀りするのは伊都許利命。遥か4世紀の昔、国造として民を教導され、殖産農耕を振興して麻賀多神社を創建されました。
伊都許利神社
祭神
印波國造伊都許利命(いんばのくにのみやつこいつこりのみこと)大名持命(おおなもちのみこと)
由緒沿革
印波国造伊都許利命は神武天皇の王子神八井耳命(かんやいみみのみこと)八代目の御孫子で、応神帝の命を受けて当地方を平定され、産業の指導等に大きな功績を残される。また日本武尊の故事に関わる瀛津宮(鏡)、大宮殿(七つの玉)を当地に祀り、共に真賀多真(まがたま)の社と崇敬される。当社は古墳域にあり、墳丘は東西三五メートル、南北三六メートル、高さ五メートルの方形墳で、遺体埋納施設は後期古墳の主体部に多く見られる、凝灰(系)軟質砂岩の切石積みによる横穴式石室(南側裾部)と絹雲母片山岩の板石を組み合わせた箱式石棺の二施設がある。
詳細情報
社号 | 伊都許利神社 |
ご祭神 | |
由緒・歴史 | |
住所 | 成田市船形827 |
その他 | ■麻賀多神社 公式HP https://makata-jinja.com/ |
参考
上記のWeb サイトのほかに、下記を参考にさせていただきました。
- 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
- 『千葉県印旛郡誌』印旛郡 編 1913年
- 『成田参詣記(成田名所図会)』中路 定俊、中路 定得 著 1858年
- 『房総の古社』菱沼 勇、梅田 義彦 著 1975年
- 『日本の神々 神社と聖地 11 関東』谷川 健一 編 1984年