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建市神社 近隣の遺跡・遺構│市原市武士

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目次

建市神社 近隣の遺跡・遺構

建市神社旧鎮座地周辺の遺跡・遺構
左:現在の航空写真、右:遺構・遺跡地図
1.武士遺跡 2.武士廃寺 3.人見塚古墳 4.武士古墳群
(参考:『武士遺跡におけるいわゆる「方形周溝遺構」について』の第1図を抜粋)

人見塚・人見塚古墳(武士人見塚古墳)

人見塚古墳は、「建市神社 奥宮」に隣接する前方後円墳で、武士古墳群の主墳と考えられています。

築造時期は明確ではありませんが、古墳時代(6世紀初頭?)に築かれた地域首長層の墓であったと考えられています。

当地には、「『日本武尊』が小高い塚に登り里人の様子を伺ったため、人見塚と呼ばれた」という伝承の残る塚があるとされます。この人見塚と人見塚古墳は同一視されています。

人見塚古墳の概要を以下にまとめます。

前方後円墳
大きさ長軸約65m・全長約60m・主軸長約50mなどと記される。
一方、全長38.4m 前方部高 1.5m 後円部高4.3m(『昭和63年度 – 市原市内遺跡群発掘調查報告』)とも記される
場所「建市神社」奥宮の東側約10m地点に所在。
一方、古墳の前方部より約40m地点に長軸と同方向に「建市神社」が所在、とも記載される。
方向神社が西向きであるのと同様、西を向いている
埴輪埴輪が墳丘に二段に巡っていた。
埴輪は下総型埴輪と伝わる
その他近隣に一辺16m 高1mの方墳が見つかっている
武士古墳群のその他の古墳前方後円墳として八幡城古墳(全長36m)がある。
その他、少数の方墳と多数の円墳が見つかっている

人見塚古墳と奥宮の位置関係については、地理院地図の傾斜量図と福増遺跡群の調査報告書が参考になりそうです。

これら2つの地図を合わせると次のようになります。人見塚古墳は奥宮境内の傍らにあり、古墳と奥宮社殿はほぼ同じ方向(約220°)を向いていることがわかります。

建市神社 奥宮と人見塚古墳

ただし、元となった2つの地図の標高線が著しく異なっているほか、資料により人見塚古墳の長さがまちまちであるため、古墳の位置がどの程度参考になるかは不明です。そもそも、古墳は調査の際に潰してしまったのかもしれません。

武士遺跡について

武士遺跡は、人見塚古墳の北東、福増浄水場の場所にあった遺跡で、縄文時代以降の遺構が多数出土しています。

墳墓

7世紀後半から9世紀前半の円墳1基、方形墳墓38基、単独地下式主体部4基、単独石櫃主体部3基が見つかっています。

  • 先述の人見塚古墳(前方後円墳)は6世紀初頭と考えられる

瓦葺き建物=仏堂?

国分寺系瓦などの出土集中地点があり、この場所に8世紀の瓦葺き建物が存在したことが想定されます。これは、上記の石櫃墓の年代観とほぼ一致するため、「墳墓と関連性をもった仏堂」ではないかと考えられています。埋葬と供養が一体となった宗教的空間であったのでしょうか。

仏教受容と墓制の変遷

人見塚古墳を中心とする武士地区では、古墳時代の首長墓に始まり、奈良・平安時代の墓域や仏教施設へと土地利用が変化しており、武士遺跡はその変遷を理解するうえで重要な遺跡となっています。

武士廃寺

武士廃寺は、人見塚古墳のすぐ北側に位置する、8世紀を中心に活動したと考えられる寺院跡です。

武士廃寺跡および隣接する上述の武士遺跡からは、以下の軒丸瓦が確認されています。

  • 二重圏文縁単弁八葉蓮華文軒丸瓦
  • 鋸歯文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦
  • 鋸歯文縁複々弁四葉蓮華文軒丸瓦
  • 有心四重圏文軒丸瓦
  • 有心三重圏文軒丸瓦
  • 二重弧文軒平瓦
  • 唐草文軒平瓦
  • 重郭文軒平瓦

これらのうち、⑤は後期難波宮系統との関連が指摘されており、国分寺造営以前に市原地域へ導入された可能性が示されています。

一方、①②は、奈良時代中葉から後葉にかけて広く見られる形式であり、武士廃寺が8世紀に活動していたことを裏付けています。

ただし、これらの瓦の年代から寺院の創建年代を直接決定することはできないため、武士廃寺が上総国分寺より古いのか新しいのかについては、明確にすることは難しいでしょう。

百塚

神社を下った参道の両側は百塚と呼ばれ、大小の古墳が数十基あったが、現在は十基ほどしか残されていないそうです。

円墳の最大のものは径約40mとかなりの大きさで、古代豪族の墓域であったと考えられています。

抜粋『生きている民俗探訪千葉』

基本情報

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

『千葉県教育振興財団 文化財センター 研究紀要』抜粋

埴輪が墳丘に二段に巡る全長約60mの人見塚古墳

生きている民俗探訪千葉

神社の東側約一〇メートル地点に長軸約六五メートルの前方後円墳があり、神社の社殿が西向きであるように同じく西を向いている。この古墳は昔から人見塚と呼ばれ、倭建命が東征のおりにここに立ち寄り、良民をみそなわしたことからこう呼ぶようになったという。

神社を下った参道の両側は俗に百塚と呼ばれていて、大小の古墳が数十基あった。しかし現在は十基ほどに減ってしまっている。もちろん円墳の最大のものは径約四〇メートルを測るものもあり、古代豪族の墓域であったと考えられる。

『千葉県市原郡誌』抜粋

神社の後方に人見塚といふあり博へ日ふ人皇第十二代景行天皇の御代日本武尊東夷御征伐の爲め此地に御巡臨小高き塚に御着あらせらる、里の良人等尊を警衛し奉る、尊御感浅からずして「此塚に到りて良人を見たり」と依つて時人社後の丘阜を人見塚と稱べり。

『武士遺跡(弥生)|市原歴史博物館』抜粋

付近には下総型埴輪が出土したと伝えられる武士人見塚古墳があります。

『市原の歴史と文化財』抜粋

建市神社 (旧鄉社)

祭神 武甕槌命

建市神社は、現在、集落の南東にある鹿島神社に合されている。
建市神社の旧地は武士字神戸の地で、大明神山と呼んでいる。大正5年発行の『市原郡誌』には「境内百平土地高峻にして、略々長方形をなし、社殿の左右及び後方は山林にして、僅の松と椎との木あり。一中略一社殿も過去にありては廣大なるものにして、現在の殿社の後方広漠たる原野は本社本殿の跡にして、往昔は老樹欝々舟行の標となりとし伝ふ。今布目瓦の地中に埋没せるもの甚だ多し、里俗呼んで瓦石といふ。」とある。
この最後の記述にあるように、この周辺には古瓦が散布する。『須田勉/古代地方豪族と造寺活動』によると、武士廃寺から出土した八葉複弁蓮花文鐙瓦は8世紀の第II 4半期のものと考えられるという。この廃寺は武士古墳群をいとなんだ在地豪族の造営と推定されている。
武士古墳群の主墳とみなされている人見塚古墳は、主軸長約50mの前方後円墳で、前方部より約40m地点に長軸と同方向に建市神社が所在する。(鈴木仲秋/房総の泥棒神/房総文化第12号)。この神社は古墳を斉きまつったものと推定される。

『生きている民俗探訪千葉』抜粋

P108

ドロボー神さま

むかし、といっても明治初年ごろまで、武士地区から参道ぞいに巨大な松の並木があって、東京湾を通る船がアテ(目じるし)にしたといわれる。現在はその面影すらない。
神社の東側約一〇メートル地点に長軸約六五メートルの前方後円墳があり、神社の社殿が西向きであるように同じく西を向いている。この古墳は昔から人見塚と呼ばれ、倭建命が東征のおりにここに立ち寄り、良民をみそなわしたことからこう呼ぶようになったという。明治のころに古蹟に熱心な人がいて、この塚は弘文天皇の御陵だとして陵墓参考地に指定してもらうよう働きかけたこともあったらしい。
ともかく建市神社は「三代実録』に記され、元慶八年(八八四)七月十五日に従五位下を焼けられている。これから推しても有力な神社であったことが知られよう。それにまた神社の北側には布目瓦が出土し、その文様からすると奈良時代末期から平安時代初期のものであるらしい。
古代にこの周辺に豪族のいたことは神社裏の前方後円墳からも推定できるが、神社を下った参道の両側は俗に百塚と呼ばれていて、大小の古墳が数十基あった。しかし現在は十基ほどに減ってしまっている。もちろん円墳の最大のものは径約四〇メートルを測るものもあり、古代薬族の墓域であったと考えられる。
古墳が築造されなくなると、それに替わって寺院が権力・財力の象徴として建てられたことは、いろいろ説かれているが、まさしく建市神社裏の寺跡はこれに当てはまる。
ここの豪族は権力・財力はもっていたが、ただちに中央集権の中には組み入れられなかったのではなかろうか。元慶七年(八八三)二月に俘囚の反乱のことが「三代実録』に記されているが、このときの反乱者数は三十余であるにもかかわらず、国守は千人で追討したものの追討できず、数千人でなければ征伐できないと記しているところを見ると、単に山中に逃げたのではなく、建市神社のような有力変族の領地にかくまわれた可能性が強い。盗人神の伝承の発生はこのあたりにあるとはいえないだろうか。

『房総の古社』抜粋

P192

高さ100メートル足らずの低い山なみが、ほぼ東西に連亘している。その中ほどに、他よりやや高く形の良い山が大明神山で、その頂上に、あたかも山に帽子をかぶせたような形で、椎の森がこんもり茂ったところがある。その椎の森のなかに、建市神社の元宮があったのである。

『千葉県教育振興財団 研究紀要 【分割】生産遺跡の研究 2 -玉- (p72~p127)』抜粋

市原市 武士遺跡[県年89]

遺跡は養老川東岸の標高75m~78mの南北にのびるほぼ平坦な台地上に位置し、その東側と西側は村田川によって開析された谷が入り込んでいる。南側は急斜面が形成され、養老川に開析された低地へと続いている。周辺には、縄文時代後期の集落遺跡である勝間遺跡や、縄文時代後期と弥生時代後期の住居跡を検出した武士遺跡、埴輪が墳丘に二段に巡る全長約60mの人見塚古墳や、国分寺に先行し建立されたと考えられている武士廃寺の推定地などが知られている。調査は、千葉県水道局による浄水場建設に先行して1987年4月から1990年3月まで実施され、48,000㎡の面積について調査が行われた。調査対象地全面にわたって縄文時代早期から晩期に至るまでの遺物が検出されている。また弥生時代中期の再葬墓・竪穴住居・方形周溝墓が検出されている。歴史時代以降では方形周溝状遺構・火葬墓が検出されている。中でも縄文時代の遺構。遺物は、中期末から後期にかけてのものが主体を占め、竪穴住居・土坑・埋甕等が検出されている。
縄文時代晩期後葉の包含層は約15mの範囲に集中して出土し、氷I式併行の時期と考えられ、これらの土器群に伴って滑石製臼玉類の成品。未成品が出土している。遺構に伴うような集中の仕方はみられないが、滑石製玉類の工房の存在がうかがわれるとしている。原材にヒスイは認められず、使用石材の産地が県内に求められる可能性もある。

『千葉県文化財センター 研究紀要18』抜粋

7武士遺跡

市原市福増字向田・勝問字土器石

養老川中流の右岸で、東から村田川支流の神崎川の谷津が深く入り込んだ標高約75mの台地上に位置している。人見塚古墳・鍋塚古墳などの武士古墳群や、武士廃寺跡、元慶8年(884)に昇叙記事がある「建市神」に比定される建市神社の旧地が南に接している。武士遺跡からは7世紀後半から9世紀前半の円墳1基、方形墳墓38基、単独地下式主体部4基、単独石櫃主体部3基が発見された。墳墓群に接して国分寺系瓦などの出土集中地点があり、瓦葺き建物跡の存在が想定されている。また、その地点に接してカマド材に瓦を転用した415号竪穴住居跡も1軒発見された。この付近は7世紀後半の古い墳墓と8世紀後半の石櫃を主体部とする墳墓群(図中の網掛けの墳墓)が集中している。そして、9世紀前半の地下式坑を主体部とする新しい墳墓がより南に広がる傾向がある。瓦と石櫃墳墓群の年代観がほぼ一致する点から、瓦葺き建物は墳墓と関連性をもった仏堂の可能性が高い。

武士遺跡の南東に接して、武士廃寺跡の瓦散布地がある。一部発掘調査されているが詳細不明で、瓦窯跡の可能性も指摘されている。武士遺跡出土瓦は、この武士廃寺跡付近のものも含まれている。これまで両遺跡から出土した軒丸瓦は二重圏文縁単弁八葉蓮華文軒丸瓦、鋸歯文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦、鋸歯文縁複々弁四葉蓮華文軒丸瓦、有心四重圏文軒丸瓦、有心三重圏文軒丸瓦(1)の計5種である。軒平瓦は二重弧文、唐草文、重郭文3種(2~4)の計5種がある。丸瓦は無段式のみで、平瓦は桶巻作りの縄叩きと、凸面布目平瓦、凸型台一枚作りの縄叩きと斜格子叩きがある。このほかに武士遺跡からは甑も出土している。

『日本の神々 神社と聖地 11 関東』抜粋

P257

(前略)長軸約六〇メートルの前方後円墳がある。この古墳は俗に人見塚とよばれ、(中略)、形態および埴輪などから六世紀初頭の築造になるものと推定される。(後略)

Webサイト

書籍

  • 『路傍の神様 : 道祖神のふるさとをたずねて』川口謙二 著 1968年
  • 『全国遺跡地図 : 史跡・名勝・天然記念物および埋蔵文化財包蔵地地図 千葉県』文化庁文化財保護部 1974
  • 『市原の歴史と文化財』市原市教育委員会 1983
  • 『千葉県市原郡誌』千葉県市原郡教育会 編 大正5年
  • 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
  • 『市原郡誌』千葉県市原郡教育会 編 1972年
  • 『市原郡誌』千葉県市原郡教育会 編 1989年
  • 『市原市史 中巻』市原市教育委員会 編 1986.3
  • 『房総の古社』菱沼勇, 梅田義彦 著 1975年
  • 『生きている民俗探訪千葉』1978年
  • 『祖神・守護神 (東京美術選書 ; 21)』川口謙二 著 1979年
  • 『日本の神々 神社と聖地 11 関東』谷川 健一 編 1984年

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