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建市神社 創建の由来│市原市武士

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市原市武士(たけし)の建市神社(たけちじんじゃ・たけしじんじゃ)の前提知識

由緒、祭神は不明

建市神社(たけちじんじゃ・たけしじんじゃ)は、光仁天皇の御代(770~781年)に創建された、『日本三代実録』に登載される国史現在社です。

明治初年に市原市武士(たけし)の低地に御霊(みたま)が遷されるまでは、同地区の丘陵上にある大明神山に鎮座していました。

現在、旧鎮座地(奥宮・元宮)には倒壊した社殿跡が残されるだけで、祭祀は行われていません。

『千葉県神社名鑑』に、祭神は「武甕槌命」「大宮姫命」「大日孁尊」と記されていますが、この三柱は明治期に合祀された近隣の神社の祭神であり、「建市神社」の本来の祭神ではないと考えられています。同様に、創建や社名の由来についても、詳細は伝えられていません。

創建年代、沿革

  • 光仁天皇の御代(770~781年)に創建
  • 元慶八年(884年)に正六位上から従五位下へ昇叙(『三代実録』(901年編纂)の記載内容より)
  • 往古、人見塚古墳の上に社殿があったと伝わる
  • 近代、人見塚古墳の傍らに奥宮が鎮座、ともに南西方向(約220度)を向いている

墓域、仏教施設が重要か?

上述の通り、「建市神社」の創建に関する情報は、創建年代以外まったく見つかりません。

一方、神社周辺には多数の古墳や仏教施設があり、神社の創建とそれらが深く関わっていることが推察されます。

本稿では、遺跡・遺構の存在から、空間的に「建市神社」創建時の状況を整理することで、祖先祭祀・仏教信仰・神社祭祀が重層的に営まれたことを論じてみたいと思います。

墓制の変遷

奥宮の傍らには、人見塚古墳という前方後円墳がありました。さらにこの近傍の武士遺跡からは、7世紀後半から9世紀前半までの多数の古墳が見つかっています。

墓の形は時代とともに変化したものの、この地域は数百年にわたり埋葬の場として利用され続けてきたことがわかります。

前方後円墳 → 方形墳墓 → 石櫃主体墓 → 地下式坑主体墓

興味深いことに、この連続する墓性の流れの途中に、仏教文化が入ってきたようです。傍に「武士廃寺」が造立されるほか、墳墓群と同じ場所に瓦葺きの仏堂があったと想定されています。

そして更に興味深いことに、この時期に「建市神社」が創建されます。仏教信仰と神社祭祀の両方が営まれていた可能性が考えられます。

年代社寺
6世紀前方後円墳(人見塚古墳)
7世紀方形墳墓(少数)
8世紀方形墳墓(複数)、
石櫃を主体部とする墳墓群
建市神社、武士廃寺、瓦葺き建物(仏堂?)
9世紀方形墳墓(少数)、
地下式坑主体墓(火葬骨)

奥宮と人見塚古墳

奥宮と人見塚古墳の位置関係は、各資料を統合すると次のようになります。前方後円形の人見塚古墳の方墳部の足元に奥宮境内が位置しています。

興味深いことに、奥宮社殿と人見塚古墳はともに南西方向(約220度)を向いています。

人見塚古墳の築造は6世紀初頭と推定され(『日本の神々』)、一方、「建市神社」の創建は光仁天皇の御代(770~781年)と伝えられています。

造立年代に二百数十年もの開きがある古墳と社が、すぐ傍らに位置し、同じ方向を向いているというのは、何かしらの関連が伺えます。

ところで、大正5年発行の『市原郡誌』に「社殿も過去にありては廣大なるものにして、現在の殿社の後方広漠たる原野は本社本殿の跡にして、往昔は老樹欝々舟行の標となりとし伝ふ。」とあり、かつては人見塚古墳の上に立派で規模の大きな「広大なる社殿」があった可能性も考えられます。

「建市神社」が創建された8世紀の様子

8世紀の大明神山の頂上付近では、人見塚古墳に近接して次の三つが造立されました。

  • 墓域:方形墳墓群、石櫃主体墓群
  • 仏教施設:「武士廃寺」、瓦葺きの仏堂(?)
  • 神社:「建市神社」

このことから、当地は単なる墓地ではなく、祖先祭祀・仏教信仰・神社祭祀が重層的に営まれた宗教的空間であった可能性が考えられます。

「建市神社」は、二百数十年前に築造された鳥見塚古墳との結びつきが強く、古墳の被葬者をはじめとする遠祖への祭祀が行われていた可能性があります。

一方、武士廃寺や瓦葺きの仏堂では、当時の死者に対する葬送や追善供養が営まれ、被葬者は方形墳墓や石櫃主体部をもつ新しい形態の墓へ埋葬されたと考えることもできるでしょう。

墓域の被葬者と「建市神社」の祭神

建市神社は、元慶8年(884)に従五位下へ昇叙されたことが『日本三代実録』に記されています。伝承どおり光仁朝(770~781年)頃の創建とすれば、創建からおよそ百年ほどで神階を授かったことになります。

また、武士廃寺から出土する瓦には、畿内との関係をうかがわせる特徴が指摘されています。

これらのことから、この墓域の被葬者は単なる地方豪族ではなく、朝廷との結びつきを有した地域首長層、あるいはそれに準ずる有力者であった可能性が考えられます。

「建市神社」の祭神については明らかではありませんが、人見塚古墳の被葬者、あるいは当地を支配した有力者の祖神を祀ったものであったと考えるのは自然でしょう。

また、「建市」という社名についても興味深い問題があります。もしその名称が地形(高い地)や伝説上の人物(タケルの地)に由来するものではないとすれば、「高市県主(たけちのあがたぬし)」や「高市氏」と何らかの関係をもつ氏族の祖神祭祀に由来する可能性も考えられます。ただし、この点については現時点では推測の域を出ず、今後の検討課題といえるでしょう。

基本情報

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

『千葉県教育振興財団 文化財センター 研究紀要』抜粋

埴輪が墳丘に二段に巡る全長約60mの人見塚古墳

生きている民俗探訪千葉

神社の東側約一〇メートル地点に長軸約六五メートルの前方後円墳があり、神社の社殿が西向きであるように同じく西を向いている。この古墳は昔から人見塚と呼ばれ、倭建命が東征のおりにここに立ち寄り、良民をみそなわしたことからこう呼ぶようになったという。

神社を下った参道の両側は俗に百塚と呼ばれていて、大小の古墳が数十基あった。しかし現在は十基ほどに減ってしまっている。もちろん円墳の最大のものは径約四〇メートルを測るものもあり、古代豪族の墓域であったと考えられる。

『千葉県市原郡誌』抜粋

神社の後方に人見塚といふあり博へ日ふ人皇第十二代景行天皇の御代日本武尊東夷御征伐の爲め此地に御巡臨小高き塚に御着あらせらる、里の良人等尊を警衛し奉る、尊御感浅からずして「此塚に到りて良人を見たり」と依つて時人社後の丘阜を人見塚と稱べり。

『武士遺跡(弥生)|市原歴史博物館』抜粋

付近には下総型埴輪が出土したと伝えられる武士人見塚古墳があります。

『市原の歴史と文化財』抜粋

建市神社 (旧鄉社)

祭神 武甕槌命

建市神社は、現在、集落の南東にある鹿島神社に合されている。
建市神社の旧地は武士字神戸の地で、大明神山と呼んでいる。大正5年発行の『市原郡誌』には「境内百平土地高峻にして、略々長方形をなし、社殿の左右及び後方は山林にして、僅の松と椎との木あり。一中略一社殿も過去にありては廣大なるものにして、現在の殿社の後方広漠たる原野は本社本殿の跡にして、往昔は老樹欝々舟行の標となりとし伝ふ。今布目瓦の地中に埋没せるもの甚だ多し、里俗呼んで瓦石といふ。」とある。
この最後の記述にあるように、この周辺には古瓦が散布する。『須田勉/古代地方豪族と造寺活動』によると、武士廃寺から出土した八葉複弁蓮花文鐙瓦は8世紀の第II 4半期のものと考えられるという。この廃寺は武士古墳群をいとなんだ在地豪族の造営と推定されている。
武士古墳群の主墳とみなされている人見塚古墳は、主軸長約50mの前方後円墳で、前方部より約40m地点に長軸と同方向に建市神社が所在する。(鈴木仲秋/房総の泥棒神/房総文化第12号)。この神社は古墳を斉きまつったものと推定される。

『生きている民俗探訪千葉』抜粋

P108

ドロボー神さま

むかし、といっても明治初年ごろまで、武士地区から参道ぞいに巨大な松の並木があって、東京湾を通る船がアテ(目じるし)にしたといわれる。現在はその面影すらない。
神社の東側約一〇メートル地点に長軸約六五メートルの前方後円墳があり、神社の社殿が西向きであるように同じく西を向いている。この古墳は昔から人見塚と呼ばれ、倭建命が東征のおりにここに立ち寄り、良民をみそなわしたことからこう呼ぶようになったという。明治のころに古蹟に熱心な人がいて、この塚は弘文天皇の御陵だとして陵墓参考地に指定してもらうよう働きかけたこともあったらしい。
ともかく建市神社は「三代実録』に記され、元慶八年(八八四)七月十五日に従五位下を焼けられている。これから推しても有力な神社であったことが知られよう。それにまた神社の北側には布目瓦が出土し、その文様からすると奈良時代末期から平安時代初期のものであるらしい。
古代にこの周辺に豪族のいたことは神社裏の前方後円墳からも推定できるが、神社を下った参道の両側は俗に百塚と呼ばれていて、大小の古墳が数十基あった。しかし現在は十基ほどに減ってしまっている。もちろん円墳の最大のものは径約四〇メートルを測るものもあり、古代薬族の墓域であったと考えられる。
古墳が築造されなくなると、それに替わって寺院が権力・財力の象徴として建てられたことは、いろいろ説かれているが、まさしく建市神社裏の寺跡はこれに当てはまる。
ここの豪族は権力・財力はもっていたが、ただちに中央集権の中には組み入れられなかったのではなかろうか。元慶七年(八八三)二月に俘囚の反乱のことが「三代実録』に記されているが、このときの反乱者数は三十余であるにもかかわらず、国守は千人で追討したものの追討できず、数千人でなければ征伐できないと記しているところを見ると、単に山中に逃げたのではなく、建市神社のような有力変族の領地にかくまわれた可能性が強い。盗人神の伝承の発生はこのあたりにあるとはいえないだろうか。

『房総の古社』抜粋

P192

高さ100メートル足らずの低い山なみが、ほぼ東西に連亘している。その中ほどに、他よりやや高く形の良い山が大明神山で、その頂上に、あたかも山に帽子をかぶせたような形で、椎の森がこんもり茂ったところがある。その椎の森のなかに、建市神社の元宮があったのである。

『千葉県教育振興財団 研究紀要 【分割】生産遺跡の研究 2 -玉- (p72~p127)』抜粋

市原市 武士遺跡[県年89]

遺跡は養老川東岸の標高75m~78mの南北にのびるほぼ平坦な台地上に位置し、その東側と西側は村田川によって開析された谷が入り込んでいる。南側は急斜面が形成され、養老川に開析された低地へと続いている。周辺には、縄文時代後期の集落遺跡である勝間遺跡や、縄文時代後期と弥生時代後期の住居跡を検出した武士遺跡、埴輪が墳丘に二段に巡る全長約60mの人見塚古墳や、国分寺に先行し建立されたと考えられている武士廃寺の推定地などが知られている。調査は、千葉県水道局による浄水場建設に先行して1987年4月から1990年3月まで実施され、48,000㎡の面積について調査が行われた。調査対象地全面にわたって縄文時代早期から晩期に至るまでの遺物が検出されている。また弥生時代中期の再葬墓・竪穴住居・方形周溝墓が検出されている。歴史時代以降では方形周溝状遺構・火葬墓が検出されている。中でも縄文時代の遺構。遺物は、中期末から後期にかけてのものが主体を占め、竪穴住居・土坑・埋甕等が検出されている。
縄文時代晩期後葉の包含層は約15mの範囲に集中して出土し、氷I式併行の時期と考えられ、これらの土器群に伴って滑石製臼玉類の成品。未成品が出土している。遺構に伴うような集中の仕方はみられないが、滑石製玉類の工房の存在がうかがわれるとしている。原材にヒスイは認められず、使用石材の産地が県内に求められる可能性もある。

『千葉県文化財センター 研究紀要18』抜粋

7武士遺跡

市原市福増字向田・勝問字土器石

養老川中流の右岸で、東から村田川支流の神崎川の谷津が深く入り込んだ標高約75mの台地上に位置している。人見塚古墳・鍋塚古墳などの武士古墳群や、武士廃寺跡、元慶8年(884)に昇叙記事がある「建市神」に比定される建市神社の旧地が南に接している。武士遺跡からは7世紀後半から9世紀前半の円墳1基、方形墳墓38基、単独地下式主体部4基、単独石櫃主体部3基が発見された。墳墓群に接して国分寺系瓦などの出土集中地点があり、瓦葺き建物跡の存在が想定されている。また、その地点に接してカマド材に瓦を転用した415号竪穴住居跡も1軒発見された。この付近は7世紀後半の古い墳墓と8世紀後半の石櫃を主体部とする墳墓群(図中の網掛けの墳墓)が集中している。そして、9世紀前半の地下式坑を主体部とする新しい墳墓がより南に広がる傾向がある。瓦と石櫃墳墓群の年代観がほぼ一致する点から、瓦葺き建物は墳墓と関連性をもった仏堂の可能性が高い。

武士遺跡の南東に接して、武士廃寺跡の瓦散布地がある。一部発掘調査されているが詳細不明で、瓦窯跡の可能性も指摘されている。武士遺跡出土瓦は、この武士廃寺跡付近のものも含まれている。これまで両遺跡から出土した軒丸瓦は二重圏文縁単弁八葉蓮華文軒丸瓦、鋸歯文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦、鋸歯文縁複々弁四葉蓮華文軒丸瓦、有心四重圏文軒丸瓦、有心三重圏文軒丸瓦(1)の計5種である。軒平瓦は二重弧文、唐草文、重郭文3種(2~4)の計5種がある。丸瓦は無段式のみで、平瓦は桶巻作りの縄叩きと、凸面布目平瓦、凸型台一枚作りの縄叩きと斜格子叩きがある。このほかに武士遺跡からは甑も出土している。

『日本の神々 神社と聖地 11 関東』抜粋

P257

(前略)長軸約六〇メートルの前方後円墳がある。この古墳は俗に人見塚とよばれ、(中略)、形態および埴輪などから六世紀初頭の築造になるものと推定される。(後略)

Webサイト

書籍

  • 『路傍の神様 : 道祖神のふるさとをたずねて』川口謙二 著 1968年
  • 『全国遺跡地図 : 史跡・名勝・天然記念物および埋蔵文化財包蔵地地図 千葉県』文化庁文化財保護部 1974
  • 『市原の歴史と文化財』市原市教育委員会 1983
  • 『千葉県市原郡誌』千葉県市原郡教育会 編 大正5年
  • 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
  • 『市原郡誌』千葉県市原郡教育会 編 1972年
  • 『市原郡誌』千葉県市原郡教育会 編 1989年
  • 『市原市史 中巻』市原市教育委員会 編 1986.3
  • 『房総の古社』菱沼勇, 梅田義彦 著 1975年
  • 『生きている民俗探訪千葉』1978年
  • 『祖神・守護神 (東京美術選書 ; 21)』川口謙二 著 1979年
  • 『日本の神々 神社と聖地 11 関東』谷川 健一 編 1984年

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