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甕山│茨城県鹿嶋市

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目次

茨城県鹿嶋市の甕山(みかやま)の概要

甕山(みかやま)は、「鹿島神宮」の「水上鳥居」(西の一之鳥居)近くの低地にかつてあった、大小二つの小塚です。

往古、当地の地中には、鹿島第一の神宝と呼ばれる、「甕速日命」を祀る「大甕(おおがめ)」が埋もれていたと伝わるほか、朝廷からの勅使の祭典は当地で採り行われたともいわれています。

別称として「瑞甕の森」とも呼ばれ、昔は椎の老大樹が茂っていたそうです。現在は、二つの塚も椎の森もなく、「甕山之碑」が一基寂しく建っています。

塚に眠る「甕速日命」の「大甕」

当地の塚の下には、「甕速日命」を祀る「大甕」が埋もれていたという伝承があります。

書籍『鹿島神宮』に記されている、『神日本』第三巻第六号の引用に、「古き神々」からの伝承として、大瓶の由来と往古の土地の状況が記されています。その内容をまとめると次のようになる。

  • 大甕は、もともと豊前にあったが、「神武天皇」が大和に移し、「景行天皇」が鹿島に移した
  • この甕は、鹿島明神の御祖先を祀る壺で、鹿島第一の神宝であり、「甕速日」という
  • 甕のある場所は、昔は陸地で、神宝(甕)預かりの役人がいた。しかし、今は海になってしまい、船で上を通ると鮮やかにみることができる

以上をまとめると、「大甕」のある場所は、次のように遷移したことがわかります。

豊前 → 大和 → 鹿島 [陸 → 海底 → 甕山の地中]

  • 豊前は福岡県東部~大分県北部

「大甕」と「建借間命」

話が横道にずれますが、『常陸風土記』に、行方郡の反抗する原住民を平定した「建借間命」(の軍勢)は、「杵島曲(きしまぶり)」という歌を歌ったとあります。

杵島は佐賀県南西部、「大甕」がもともとあったという豊前は福岡県東部~大分県北部です。どちらも九州北部という共通点があります。

「『大甕』は『建借間命』が持ち込んだ」という説を考えても面白いかもしれません。

また、「鹿島神宮」と関連の深そうな、「息栖神社」や「香取神宮」第一摂社の「側高神社」にも、甕の伝承が残ります。往古、利根川下流域では、例えば「縄文期の甕を祀る」といった風習があったのでしょうか?

「津東西社」の旧鎮座地

「鹿島神宮」の境内に、「津東西社(津の東西社)」という社があります。手水の手前を左に曲がると、奥にいくつかの境内社が並んでおり、「津東西社」は、「天太玉」を祀る「祝詞社」の右手に鎮座しています。

この「津東西社」は往古、「甕山」の傍らに鎮座していたそうです。

東実氏は、書籍『鹿島神宮』のなかで、次のような推論を立てられています。

  • 往古、甕山周辺が湖(海)に面していた際、「津の西社」「津の東社」の二つの社があった
  • 水辺が少しずつ陸化していき、「津の東社」が、水辺に近い「津の西社」に合併された
  • 「津の東社」のあとは山盛りされ、いつしか「甕山」の名前が誤って「津の東社」の旧知に付けられた

ところで、『常陸国風土記』に記載される、「日本武尊」の時代(景行天皇の時代)に「中臣狭山命」が2丈余り(約6m)の3隻の舟を「天之大神」に献上した場所は、当地であるという説があります(書籍『鹿島神宮』)。

近年、小塚が埋め立てられた

1968年出版の書籍『鹿島神宮』に、大きい方の塚は昭和42年に埋め立てられ、小さい方は椎の木の傍らに残っていると記されています。

しかし、当サイト筆者が実際に当地を訪れたところ、それらしい小塚も椎の木もありませんでした。小塚の方も近年潰されてしまったのかもしれません。そのため現在は、「甕山之碑」だけが、「甕山」のあったことを偲ばせる唯一の痕跡となっています。

大きい方の塚の出土物

昭和42年に大きい方の塚が埋め立てられることになり、鹿島文化研究会が緊急発掘したところ、高杯・杯・皿・甕・角土柱等が出土し、そのほとんどが須恵器・土師器の祭器だったそうです(書籍『鹿島神宮』)。

「甕速日命」を祀ると伝わる「大甕」は出土しなかったようですが、出土物のなかに「甕」が含まれているのが気になります。

ところが、この発掘調査に関しての報告書などが一切見つからないため、遺物の詳細を調べることができません。

写真図鑑

石碑

鹿島城山公園から望む「甕山」周辺

基本情報

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

『鹿島神宮』抜粋

古き神人の伝に
常陸国鹿島の海底に、一つの大甕(おおがめ)あり、その上を船にて通れば、下に鮮やかに見ゆるといへり、古老伝えいう。此の大甕太古は豊前にありしを神武天皇大和に移したまひき。
又景行天皇当国に祭りたまう時、此の甕をも移したまえるにこそあれといえり。
此の大甕は鹿島明神の御祖先を祭り奉る壺にて、鹿島第一の神宝として、世々これを甕速日と申すといえり。
世移り変わりて、御遺体は御座ましまさぬと申すといえど、彼の大甕なお石の如くに残れり、今の甕の在る所は、昔は陸にして、此の神宝預りの役人もありしが、いまは海となれり、鹿島の社務は代々中臣氏の人にてつとめ、鎌足公までは、当所社務にてありしが都に上り政務を預り、遂に都に止りたまう。
彼壺預りの人、今は社務のようにてい申すといえ伝えり。
されば中臣鎌足公は、鹿島より登りたる人なりしと中山内大神忠親公の水鏡といえる書にも見えるはkのわけにやあらむかし。

石碑 抜粋

ここ甕山は俗に瑞甕の森といい先頃迄椎の老大樹が茂っていました 古は甕速日命を祀った大甕が地中に埋れていたと伝承されており鹿島志によるとふるくは毎年正月八日朝廷より勅使が下向して祭典が行われ伶人舞を舞い大平楽を奏し諸神官幣帛を捧げ祝詞を申して甕山を廻ったそうです 中古より鹿島惣大行事が勅使代として根本寺山内で形許りの祭式を行って来たが明治維新後は廃止されました 尚甕のある所故甕嶋というを略し鹿嶋とよび後に郡郷の名ともなったと記されています このたび地域の開発に伴い甕山も周囲が埋めたてられるので鹿嶋文化研究会が発掘調査をし伊藤操氏の協力により碑を建て後世に残すものです

Webサイト

書籍

  • 『鹿島神宮』東実 著 1968

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