千葉市中央区南生実町の八剣神社(やつるぎじんじゃ)の概要


八剣神社(やつるぎじんじゃ)は、平安時代創建と伝わる、千葉市中央区南生実町に鎮座する神社です。
明治期から終戦期まで指定村社に列格していました。
元小弓村の総鎮守、南北に分村するにあたり南生実の鎮守となりました。ちなみに、北生実の鎮守は「生実神社」です。
祭神
祭神として次の神様が祀られています。三座は別殿に祀られていましたが、明暦三年(1657年)に合祀されました。
- 日本武尊(やまとたけるのみこと)
- 大日靈貴尊(おおひるめむちのみこと)…「天照大御神」の別名。「日本武尊」が当地に一日逗留した際、神籬(ひもろぎ。神様の依り代のこと)を結び、朝日が昇る際に大神を拝したという。
- 大己貴尊(おおなむちのみこと)…境外の「小松社」に祀られていたが、文正年中(1466~1467年)に本殿右方に遷宮、のちに合祀さた。
一方、本来の祭神を「当社の神官の祖である吉野連が祭祀した剣主神(経津主神)」とする説があります(『千葉市南部の歴史』)。当社々名からも、当サイト筆者もこの説に賛同します(後述)。
創建の由来①
「日本武尊」が当地で休息した際、ここに住む夷族が境界を争っているのを平定、国境を確定し、東国を上総・下総の二カ国に分割しました。
以来、闘争は絶え平穏の土地になったため、東国鎮護の神として尊を祀ったのが、当社の起源と言われています。
下総・上総の区切りについては、村田川周辺にいくつかの面白い伝承が残っていますね。
創建の由来② 吉野連と剣主神
往昔、当社の神官を代々つとめた吉野家の祖に、「吉野連豊益(よしののむらじとみます)」という人物がいます。
彼は、9世紀中ごろに大和國吉野郡大領をつとめ、職を辞した後、宇陀郡の「劔主神祠(つるぎぬしのかみのほこら)」で数日間祭祀を行い、東国へ降りました。その孫裔「豊足」が当地「麻績(をうみ、おみ)」に定住、吉野家は神官となり当社の神官を代々つとめました。
上述の「豊益」が奉仕した「劔主神祠」は、宇陀郡の式内社「剣主神社」のこととでしょう。論社が三社あり、それぞれ「剣主大神」「剣主根之命」「経津主之大神」を祀っています。「フツ」は剣を振る音に由来すると言われますから、「剣主」=「フツ主」=「経津主」となるため、「劔主神祠」の祭神は「経津主神」だったように思えます。
- 吉野家先祖「豊益」が「経津主神」に奉祀
- 当社々名に「剣」が付く
- 中世、当社は武神として称えられた(後述)
という点から、当社「八剣神社」の本来の祭神は香取の武神「経津主神」だったと考えるのも無理が無いように思えます。
地名「生実(おゆみ)」「おゆみ野」の由来
「麻績(をうみ、おみ)」は忌部氏か?
上述の「豊足」が当地を訪れた際、当地の地名はすでに「麻績(をうみ、おみ)」だったように思えます。参考文献をよく読むと、「『豊足』がこの地にとどまり当地を『麻績』と名付けた」ではなく「豊足が『麻績』にとどまった」とあるからです。
当社の北西640mほどの「七廻塚古墳」にあった「大鳥神社」(生実神社に合祀)、および、北北西1.9kmほどの大巌寺町に鎮座する「鷲宮神社」は、麻布作りの祖神「天日鷲命」を祭神としています。吉野家が定住する遥か昔、忌部氏(いんべうじ)を中心とする麻績部(おみべ)が当地ですでに麻布作りを行っており、「麻績」の地名はそこから来たように思えます。
「七廻塚古墳」を片足で左に七めぐりすると、「機を織る綺麗な乙女」が現れるそうです。麻績部の機の音が聞こえる伝承です。
「源頼光」が「大弓」を寄進
中世、当社は武神として崇敬されていたようです。寛弘年中(1004~1012年)、上総介を任ぜられた「源頼光」は、当社に大弓と社地を寄進し武運を祈りました。
そのため、中世以降、当地は「大弓」となったと言います。
麻績(をうみ、おみ) → 大弓 → 小弓 → 生実(おゆみ)
写真図鑑
拝殿







往古は一面の麻畑と水田を見下ろしていたのか
本殿




本殿の彫刻




鳥居






往古は一面の麻畑と水田を見下ろしていたのか

境内社、仏像等
『千葉市南部の歴史』(1986年)に次の五社の境内社が記載されていますが、現在は見当たりません。「五祀社」に合祀されたのでしょうか?
- 陽神社(伊琲諾尊)
- 陰神社(伊弉冉尊)
- 八坂社(素戔嗚尊)
- 今宮社(紫野の今宮を勧請)
- 痘神社(大直己命)
五祀社


天神社


稲荷神社


石碑等


仏像

天日堂


月山信仰の石碑等




ご神木


神楽殿



境内風景




参拝順路












基本情報
| 社号 | 八剣神社 |
| ご祭神 | 日本武尊(やまとたけるのみこと)、大日靈貴尊(おおひるめむちのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと) |
| 住所 | 千葉市中央区南生実町880 |
参考
下記を参考にさせていただきました。
抜粋
八剱神社(やつるぎじんじゃ) 旧指定村社
祭神
日本武尊(やまとたけるのみこと)大日靈貴尊(おおひるめむちのみこと)大己貴尊(おおなむちのみこと)
由緒治革
日本武尊が御東征の折、相模国三浦よりこの地に渡海なされ、争乱を平定し、東国を二カ国に分割して南を上総、北を下総とし永く国境とせよと命じられた。人々は御徳恩に浴し深く敬ってこの神を国家守護神と仰ぎ、東国鎮護征夷神八劔神社とし、天神社を併せ祀って崇敬した。大正二年四月神饌幣席料供進社に指定される。元小弓村の総鎮守だったが、南北に分村するにあたり南生実の鎮守となった。
八剣神社(南生実町八八五番地)
字本郷(旧称は字宮境)にあり、小弓城の台地の南部に鎮座している。日本武尊、大日孁貴尊、大己貴尊の三神を祀っている。主神は、当社の神官の祖である吉野連が祭祀した剣主神(経津主神)と推定する。
社伝によれば、日本武尊の東征の時、この地に休息され、ここに住む夷族が互いに境界を争っているのを論し、国境を確定されたという。それ以来、闘争は絶えて平穏和楽の土地になったので、夷族は尊の徳をあがめ、東国鎮護の神として祀ったということである。
祭神三座は別殿に祀られていたものであるが、明暦三年(一六五七)新殿造営の際に合祀された。大日孁貴尊の祭祀由来は、日本武尊がここに一日逗留され、神籬(ひもろぎ)を結び、朝日が昇る際に日之大神を拝し、斎祀されたことによるという。
大己貴尊は農耕の始祖として崇敬されていて、祠は境外にあって子松社と称していた。文正年中(一四六六〜一四六七)に本殿の右方に遷宮され、ついに合祀されたものという。子松社は、麻績連が祀った面足神の祠ではないかと思われる。
当社は武神として祟られ、寛弘年中(一〇〇四〜一〇一二)源頼光が上総介に任ぜられた時、大弓を奉納し、社地を寄進して武運を祈ったという。中世の小弓城の二の廓の隣に位置し、小弓城主原氏の崇敬をうけたと考えられる。
(中略)
境内末社に五社がある。
陽神社(祭神は伊琲諾尊)結婚姻、子孫
陰神社(祭神は伊弉冉尊)繁栄、国土安全
八坂社(祭神は素戔嗚尊)断疫鬼、万民安全守護として元文年間(一七三六〜一七四一) 創立
今宮社 紫野の今宮を勧請、除疫癘の神として元文年間創立
痘神社 祭神は大直己命 痘瘡守護
(後略)
P36
南生実町の八剣神社という、平安時代の創建と言われる由緒ある神社にまつわるものです。
Webサイト
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書籍
- 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
- 『千葉市南部の歴史』宍倉健吉 原著, 千葉市史編纂委員会 編 1986年
- 『おゆみ野の歴史・風土とくらし 親子で親しむふるさと物語』鈴木 毅 2015年
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