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八剣神社 吉野氏の伝承│千葉市中央区南生実町

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目次

序論

千葉市中央区南生実(みなみおゆみ)の台地の南端に、「八剣神社(やつるぎじんじゃ)」という古社が鎮座しています。

「当社神官の吉野家は、麻績連(おみのむらじ)の子孫である」というお話を聞き、同家の伝承を調べたところ、忌部氏とは別系統の麻神崇拝の一族であることがわかりました。

当サイトでは、『千葉市南部の歴史』に掲載される『過去帳残欠ほか残簡による抜書』および『系譜残欠部分』の前半部を現代語訳し、ところどころ説明を加えました。

「八剣神社」について

当地の争いを平定した「日本武尊」を敬い祀ったとも、平安時代の創建とも言われます。

往古は小弓村の総鎮守、明治期より南生実の鎮守、指定村社に列格しました。

祭神は次の三柱です。

  • 日本武尊(やまとたけるのみこと)
  • 大日靈貴尊(おおひるめむちのみこと)…「日本武尊」が当地に一日逗留した際、神籬(ひもろぎ。神様の依り代のこと)を結び、朝日が昇る際に大神を拝したという。
  • 大己貴尊(おおなむちのみこと)…

「八剣神社 吉野氏の伝承」の概要

吉野家の先祖は、「奇御戸(くしみど)」(夫婦の寝床)の神を祀る「麻績神祠(おみのかみのほこら)」を奉斎していたと考えられます。

「麻績(おみ)」は、麻を細かく砕きより合わせた麻糸のことです。吉野家は、麻製寝具の神様を祀っていたのでしょうか?

吉野家と大原氏の間に子が産まれ、さらにその子が「吉野連豊益(よしののむらじとみます)」をもうけました。彼は、9世紀中ごろに大和國吉野郡大領(吉野の県の長官)を務め、職を辞した後は、宇陀郡の「劔主神祠(つるぎぬしのかみのほこら)」で数日間祭祀を行い、そののち東国へ降りました。

この祠は、宇陀郡の式内社「剣主神社」のことでしょう。論社が三社あり、それぞれ「剣主大神」「剣主根之命」「経津主之大神」を祀っています。
「フツ」は剣を振る音に由来すると言われますから、
「剣主」=「フツ主」=「経津主」
となるため、「劔主神祠」の祭神は「経津主神」だったように思えます。

東国に降りた「豊益」の子孫の「豊足」は、「麻績」の地に住み着きました。

ここは現在の千葉市中央区南生実町やその周辺と思われます。
当地周辺には、日鷲系忌部氏の神社や、機織に関する地名・伝承がいくつか見られます。吉野氏が定住する遥か前から、日鷲系麻績部が麻布作りを行っていたのでしょう。

吉野家は、「吉野」氏と「麻績」姓を称し、子孫はこの地で神官となりました。特に、「八剣神社」(南生実町)の神主は代々、吉野家が務めていたと伝わります。

「麻績神祠」で寝床の神様を拝した吉野家の子孫は、新天地ながら聞きなじみのある「麻績」の地に居を据えたわけです。
彼らは、先祖の「豊益」が「劔主神祠」のもとで奉斎したこともあり、当地に「剣」を冠する「八剣神社」を創建したのではないでしょうか? 当初の祭神は「経津主神」だったかもしれません。
当社は中世、武神として崇敬されました。

余談

ところで、吉野家は本来、麻糸神崇拝と考えられるのですが、なぜ「豊益」は剣神を祀る「劔主神祠」で祭祀を行ったのでしょうか?

「剣主神」と同一神と考えられる「経津主神」も、布織物の神「天日鷲命」「建葉槌命」との深い関係が示唆されています。また、「香取神宮」周辺には、織物に由来する地名が数多く残っています。「経津主神」と「麻績」の関係は、今後の楽しい宿題となります。

現代語訳

『過去帳残欠ほか残簡による抜書』

【白雲別神(しらくもわけのかみ)】
【水光神(みひかのかみ)】「白雲別神」の娘で名を「豊御富(とよみほ)」という。別名「水光姫(みひかひめ)」
【神比加尼(かみひかね)】吉野連の祖先。大原氏と吉野氏の二姓は、百済王族の後裔であり、京の皇別系統である。

→ 説明

聞きなれない三柱の神様の紹介から始まります。
一・二柱目は親子神、二・三柱目は同一神とされています。
二柱目は『古事記』『日本書紀』に登場。神武天皇が東征の折に吉野に入った際、井から現れた光る尾をもつ国津神です。
吉野連はこれらの神々の子孫で、大原氏/吉野氏は百済王族の後裔とありますが、「百済王の末裔」系は後世の権威付けで頻出するため注意が必要そうです。

「吉野連久治良」従五位下
「吉野直人宮城」従五位下
その娘「高子」従五位下

「大原直人」の弟「珠城」が、「吉野直人宮城」の娘を妻とし、「高子」を生み、その子が「吉野連豊益」である。

→ 説明

歴代 吉野家の人物名と位階が並びます。

百済王を祖とする大原氏/吉野氏の間に「吉野連豊益(とみます)」が生まれました。

『新撰姓氏録考証 下(巻11-21)』等の様々な文献に、彼が嘉祥元年(848年)に大和國吉野郡大領を務めた旨が記されています。

「吉野連豊益」従五位下。

(「麻績神祠」では代々「奇御戸」の神を祀っていた。その後、「豊益」が産まれた。

→ 説明

「麻績神祠(おみのかみのほこら)」なる社が登場、現存社は不明。
「奇御戸(くみど、くしみど)」は夫婦の寝室のこと。

全体として、「吉野家が神職を務めていた(?)『麻績神祠』という社では代々、寝室の神様を祀っており、そこに「吉野連豊益」が産まれた」となるでしょうか。「麻績神祠」は、麻で作った寝具の神社だったのでしょう。

彼は吉野の県の長官を辞め、宇多(陀)郡の「劔主神祠」で数日間祭祀を行い、そののち東国へ下った。

→ 説明

「宇多(陀)郡」は、「宇多郡」(福島県(陸奥国・磐城国)の郡)でなく「宇陀郡」(奈良県(大和国)の郡) でしょう。

「劔主神祠(つるぎぬしのかみのほこら)」は、宇陀郡の式内社「剣主神社」のことでしょうか。三社ある論社の住所と祭神は下記。

  • 奈良県宇陀市大宇陀下宮奥…剣主大神
  • 奈良県宇陀市大宇陀宮奥…剣主根之命
  • 奈良県宇陀市大宇陀半阪…健速須佐男之命、経津主之大神、葦原醜男之大神

「経津主命」の「フツ」は剣を振る音とされるため、「劔主」=「経津主」とする見方があるようです。

「劔主神祠」で数日間奉祀した「吉野連豊益」は、いよいよ東国へ降ります。

「麻績」の地に留まった「豊足」は妻を迎え一人の男の子をもうけた。その幼名を「豊磨」といった。

→ 説明

突然、「麻績」なる地名と、「豊足」なる人名が登場します。

東国へ降った「吉野連豊益」の子孫に「豊足」がいるのでしょう。

地名「麻績」は、「豊足」が来る前からあったように思われます。「後にその地を麻績と名付けた」のような表現ではないためです。当サイト筆者は、当地周辺に「天日鷲命」を祀る忌部氏の足跡が散見されることから、もとは日鷲忌部が開拓し当地を「麻績」と名付けたものと推測しています。

祖□先の姓氏を継ぎ、氏を「吉野」といい、姓を「麻績」と称した。「豊磨」は成長して国史に精通し、神々を敬った。その子孫は代々続き、ついにはこの土地で神官となった。)

→ 説明

「祖□先」の「□」は不明ですが、「祖先」として問題ないでしょう。

氏は血統表示、姓は社会ランク(臣・連・宿禰)を示します。

「麻績」の姓(かばね)がここで初登場、以後はこの姓を名乗ります。「麻績神祠」を祀っていた吉野家はそもそも麻績部だったのか? 当地にいた麻績部の一族と交わったのか? 雰囲気的に後者のように思えます。

「吉野氏」「麻績連」を継いだ「豊麿」の子孫は、当地「麻績」で神官になりました。これが、おゆみ野の「八剱神社」神官の吉野家に通ずるようです(後述)。

「同麻績豊足」無冠為氏長
「吉野豊麻呂麻績廣足」

「麻績」の起源は麻植祖「長白羽神」の後裔であり、「垂仁天皇」の時代には「麻績屋姫神(おみやひめのかみ)」と呼ばれた。

→ 説明

「長白羽神(ながしらはのかみ)」は『古語拾遺』に登場する神様です。天岩戸開きの際、忌部神の棟梁「天太玉命」は、配下の布神達にそれぞれ異なる布作りを命じます。

  • 長白羽神(ながしらはのかみ)…伊勢の国の麻績の先祖。麻で青和幣(あおにぎて)を作る
  • 天日鷲神(あめのひわしのかみ)・津咋見神(つくいみのかみ)…穀木で白和幣(しろにぎて)を作る(是は木綿)
  • 天羽槌雄神(あめのはづちおのかみ)…「倭文」の遠祖。文布を織る。
  • 天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)…神衣を織る。いわゆる和衣(にぎたえ)。

「垂仁天皇(すいにんてんのう)は第11代天皇で、「倭姫命(やまとひめのみこと)に伊勢神宮を創建させました。

「麻績屋姫神(おみやひめのかみ)」は詳細不明。

(「豊磨」の祖父「豊足」は当県の郡司大領であった。大宝二年九月一日に氏長となった。)

→ 説明

「当県(とうあがた)」の場所が不明ですが、流れ的に「麻績」の地でしょか。

「吉野氏麻績連廣川」従五位下。(延暦十年正月十三日、朝廷に献上物をした功により従五位下を授けられた。)

「廣川」の十八代後の子孫「吉野右衛門大夫」従五位下 麻績連。天文21年4月18日没。
(後略)

→ 説明

麻績連の「吉野右衛門大夫」(1552年没)なる人物が現れます。後述の『系譜残欠部分』に、彼の説明が記されています。

以降は人物名が続きますが、本稿では割愛します。

『系譜残欠部分』

大原家と吉野家の祖先は、百済王族の子孫である麻績連である。その十八代後の子孫が、吉野右衛門大夫麻績重であり、総州大弓村の竟芲八劔大神の神主家の系統を名乗る。この記録は、中世の天文年間(1532~1555)以来書き伝えられてきたものである。
(後略)

→ 説明

「吉野右衛門大夫麻績重号(しげな)」は、先ほどの資料の最後に登場した「吉野右衛門大夫」と同一人物でしょう。彼は、天文七年(1538年)に南生実町の「八剱神社」の神主をしていた記録があり(『千葉市南部の歴史』P135)、1552年に没しました。

「総州大弓村の『竟芲八劔大神』」は、現「南生実町の『八劔神社』」のことでしょう。

ここでやっと、「八劔神社」の神主を吉野家が務めていたことがわかりました。

以降は人物名が続きますが、本稿では割愛します。

原文

過去帳残欠ほか残簡による抜書

原文(漢文)はこちら

白雲別神
水光神 白雲別之女名曰豊御富。亦名水光姫ト云。
神比加尼 吉野連祖
 大原吉野二姓百済親王ノ後胤右京皇別
吉野連久治良 從五位下
吉野直人宮城 従五位下
  女子高子 従五位下
   大原直人弟珠城、宮城女婚高子産豊益。
吉野連豊益 従五位下
(麻績神祠奉奇御戸ノ代々々厥后豊益、和陽吉野県辞大領、宇多(陀)郡劔主神祠数日斎祀而更東土降、麻績倚偶而豊足娶娘設一人男、稚名豊磨ト云フ。祖□父継姓氏、謂苗氏吉野、姓ヲ謂麻績豊磨成長而国史克通達崇敬神祇子孫累々而竟此郷俚為神官。)
同麻績豊足 無冠為氏長
吉野豊麻呂麻績廣足
麻績起源者麻植祖長白羽神胤也、垂仁帝御宇麻績屋姫神ト云
(吉野豊磨祖父豊足ハ当県郡司大領ナリ
大宝二年(七〇二)九月朔日為氏長)
吉野氏麻績連廣川 從五位下
(延曆十年(七九一)正月十三日天朝奉献物朝依此賞授從五位下。)
廣川十八世嗣孫
吉野右衛門大夫 従五位下 麻績連 美桂霊社
 右天文廿一乙寅(一五五二)四月十八日 (没)
右衛門尉重康霊
 右弘治二戊巳年(一五五六)五月(八十五)
宮内佐重資霊社
 右文録三甲午(一五九四)八月十八日
伊勢守重良霊社

系譜残欠部分

原文(漢文)はこちら

大原吉野両家祖 百済親王後胤麻績連 十八世孫吉野右衛門
大夫麻績重号総州大弓邨竟芲八劔大神神主家系 中古天文年
中以来書記

基本情報

社号八剣神社
ご祭神日本武尊(やまとたけるのみこと)、大日靈貴尊(おおひるめむちのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと)
住所千葉市中央区南生実町880

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

『千葉県神社名鑑』抜粋

八剱神社(やつるぎじんじゃ) 旧指定村社

祭神
日本武尊(やまとたけるのみこと)大日靈貴尊(おおひるめむちのみこと)大己貴尊(おおなむちのみこと)

由緒治革
日本武尊が御東征の折、相模国三浦よりこの地に渡海なされ、争乱を平定し、東国を二カ国に分割して南を上総、北を下総とし永く国境とせよと命じられた。人々は御徳恩に浴し深く敬ってこの神を国家守護神と仰ぎ、東国鎮護征夷神八劔神社とし、天神社を併せ祀って崇敬した。大正二年四月神饌幣席料供進社に指定される。元小弓村の総鎮守だったが、南北に分村するにあたり南生実の鎮守となった。

『おゆみ野の歴史・風土とくらし 親子で親しむふるさと物語』抜粋

P36

南生実町の八剣神社という、平安時代の創建と言われる由緒ある神社にまつわるものです。

Webサイト

書籍

  • 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
  • 『千葉市南部の歴史』宍倉健吉 原著, 千葉市史編纂委員会 編 1986年
  • 『おゆみ野の歴史・風土とくらし 親子で親しむふるさと物語』鈴木 毅 2015年

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