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【廃社】大鳥神社/【消滅】七廻塚古墳│千葉市中央区南生実町

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目次

序文

左図の上丸:生実神社、左図の下丸:大鳥神社/七廻塚古墳
右図:大鳥神社/七廻塚古墳
(『絵にみる図でよむ千葉市図誌 上巻』「北生実村絵図」(1751年か))

生実(おゆみ)の台地の南西には、かつて市内最大の円墳「七廻塚古墳(ななまわりづかこふん)」が築かれ、その墳丘上には「大鳥神社」(鷲宮)が鎮座していました。

西に東京湾を望み、南に村田川・生浜川流域の水田や麻畑を一望する地であったと推察されます。

当サイト筆者は、麻織物の一大生産地であったと推定される生実地区の基盤形成に、この古墳の被葬者と「大鳥神社」を創建した忌部一族が深く関与した可能性が高いと考えています。

惜しくも、この二つは学校の校庭拡張に伴い消滅しましたが、千葉の貴重な歴史を後世に伝えるため、本稿に記録しておきたいと思います。なお、「七廻塚古墳」の出土遺物は近隣の千葉市埋蔵文化財調査センターで見学可能であり、「大鳥神社」は「生実神社」に合祀されたと伝えられています。

同箇所の比較 – 江戸期の地図と現在地図

同箇所の比較 – 近代の地形図と航空写真

  • 『絵にみる図でよむ千葉市図誌 上巻』『千葉市史 史料編 1 (原始古代中世)』の該当箇所を抜粋し掲載させていただきました。

大鳥神社(鷲宮、鷲宮社、鷲宮大明神)

七廻塚古墳にあった大鳥神社(鷲宮)の石塔
(『千葉市南部の歴史』の該当箇所をカラー化)

大鳥神社の概要

「大鳥神社」は、かつて千葉市立生浜東小学校の校庭にあった「七廻塚古墳(ななまわりづかこふん、ななめぐりづかこふん)」の上に鎮座していた社(祠、小祠)です。「鷲宮(わしのみや)」「鷲宮大明神」とも呼ばれました。

創建年・由緒不詳、『千葉県神社名鑑』に記載はありません。

祭神は麻織物産業の祖神「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」です。

明治四三年(1910年)二月一日付で、北生実の鎮守「生実神社」(当時の社名は「御霊社」)に合祀されたと言われます。一方、「生実神社」の祭神や境内社を調べても、「大鳥神社」や「天日鷲命」の名が見当たりません。

女奉射

当社では、毎年二月酉の日に、女性だけが集まってお祭りを行う年中行事、女奉射が行われていました。

当地区から少し距離がありますが、この行事は、「集落の女性だけが(「天日鷲命」を祀る?)『鷲の社』に集まり年中行事を行う」という点で、佐倉市周辺の「お鷲講(おわしこう)」に似ているように思えます。

「お鷲講(おわしこう)」は、佐倉市飯野・飯田・江原・先崎(まっさき)の鷲系の社で営まれる、お産・安産の神「おわしさま」を祀る女性講の一種です。

なぜ「八剣神社」ではなく「生実神社」に合祀されたのか?

「大鳥神社」の南東680mほどに、小弓村(おゆみむら)の総鎮守「八剣神社(やつるぎじんじゃ)」が鎮座しています。「八剣神社」は、

  • 代々神主をつとめた吉田家が「麻績神祠(おみのかみのほこら)」を祀る家系だったと考えられる
  • 布神「長白羽命」(忌部神の一柱。「天日鷲命」の子神とも)を祖とする麻績連(おみのむらじ)を称していた

など、麻織物との強い関りがあるように見えます。

当然、鎮座場所も近く、麻織物神としての繋がりもある二社は、深い関係があったことが推察されます。しかし、

  • 「生実神社」の宝永四年(1707年)の祈祷木札に「長山 鷲宮大明神」(大鳥神社のこと)の社名が見える
  • 明治期の神社合祀に伴い「大鳥神社」が合祀された先は「生実神社」だった

という点から、「大鳥神社」はむしろ「生実神社」と強い結びつきがあったように見えます。そもそも、神主が麻績連を称する「八剣神社」の祭神に、布神が一柱も見当たりません。

些細なことに見えますが、なかなか面白い歴史ミステリーですね。

七廻塚古墳(ななまわりづかこふん)(姫塚)

七廻塚古墳の写真
(『千葉市史 史料編 1 (原始古代中世)』の該当箇所をカラー化)

七廻塚古墳の概要

「七廻塚古墳」は、生浜東小学校(当時の生浜中学校)の校庭にかつて存在した、市内最大の古墳です。

昭和33年、生浜中学校(当時)の校庭拡張工事に先立ち記録保存調査が行われ、被葬者とともに多数の遺物が出土しました。

五世紀半ばの築造、直径54m、高さ8.8mの円墳と考えられ、墳頂には「鷲宮」の祠と戦後建立の忠魂碑が建てられていました。

当古墳は、墳上の「大鳥神社」(鷲宮)に麻植神「天日鷲命」が祀られていることから、麻績連の墓であろうと推定されています。「七廻塚」の名前の由来となった「七回まわると機織りの乙女が現れる、音が聞こえる」という伝承もこれを裏付けるでしょう。

機織姫にちなみ「姫塚」とも呼ばれます。

現在

当墳は、校庭拡張工事に伴い消滅。現在、学校の南には忠魂碑が建っており、生実川・浜野川流域の低地を見下ろすことができます。往古、古墳の南には一面の麻畑と水田が広がっていたのでしょうか。

古墳の形状・年代

墳丘の形態はすでに旧状を失っており詳細不明ながら、調査当時の状況では直径54m、高さ8.8mの円墳をなしていたと言われます。

墳内には、北(破壊)・南・西三つの主体部と祭祀遺構が確認され、南・西側主体部からは被葬者と多数の遺物が出土、祭祀遺構からも多くの副葬品が出土しました。主体部の配置は『千葉市史 史料編 1 (原始古代中世)』に詳しく記載されています。

出土品から、当墳は五世紀半ばに築かれたものと考えられています。

出土物

石釧(いしくしろ)

石釧(いしくしろ)は、石製の腕輪型装身具のこと。本墳から出土した石釧は、滑石製、直系16.5cmの良品で、1992年の資料に「わが国で最も大きなもの」とあります(『千葉県の不思議事典』)。千葉市埋蔵文化財調査センターに展示されており、表側だけでなく、裏側の見事な彫刻も見ることができます。

立花(りっか)

二つの主体部の中間部からは、それぞれ5つの立花(りっか)が出土しました。一方、石枕(いしまくら)は出土していません。

石枕は、被葬者の頭を固定するそこそこ厚みのある石製の枕のことです。立花は、勾玉を二つ背中合わせに付けたような石製の飾りです。

一般的に、立花は石枕にくっつけたと考えられますが、当墳には石枕が出土していません。被葬者頭部の周辺に直接置いたのでしょうか?

その他

発掘された遺物の一部は、千葉市埋蔵文化財調査センターに展示されています。近傍の大覚寺山古墳と共に大変お勧めします。

出土時の様子は『千葉市史 史料編 1 (原始古代中世)』に詳しく記載されています。

被葬者

当墳の被葬者については、次のような説があります。

  • 墳上の「大鳥神社」の祭神から、被葬者は麻績連であろうと推定される(『千葉市南部の歴史』)。
  • 被葬者は千葉国造であろうと推定される。「蘇我比咩神社」を奉斎しながら、生実地方や都川流域などを開拓したのであろう(『房総の古社 (歴史と風土 ; 11)』)。

機織りの逸話

当塚には、かつて当地で機織が行われていたことを偲ばせる美しい逸話が残っています。

『千葉市風土記 : 郷土史読本』P197 抜粋

この塚を片足で七回左まわりすると、美しい乙女が機を織っている姿が現れるとか、梭(おさ)の音が聞こえてくるといわれ、神聖視されていた。

「梭・杼(ひ・さ)」は、機織りで縦糸の間に横糸を通す際に用いられる舟形の木製道具のことです。シャトルとも呼ばれます。

織機。右下が梭またはシャトル

片足で七回左まわりとは?

『延喜式』に、麻績氏が伊勢神宮に荒妙衣(あらたへのみそ)を献上する際は十四日間かけて機織りすることが定められています。

片足で七回。両足ならちょうど十四回? 麻績氏の古い風習でしょうか?

『延喜式』伊勢大神宮神衣祭

和妙衣は服部氏、荒妙衣は麻績氏、各自ら潔斎して、祭の月の一日より始めて織り造り、十四日に至りて祭に供へよ

七回まわると言えば、奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)も思い出されます。

ご神体である三輪山を、大物主神(巳さん、蛇さん)が7回半巻いているという伝承があります。

玉作集団がいたか

当墳の北方1.5kmほどにある、同期の築造と考えられる大森第一遺跡・大森第二遺跡などから、滑石製模造品の完成品と未完成が多数発見されていることから、周辺には玉作集団が居住していたと推定されています。

基本情報

社号大鳥神社(鷲宮)
ご祭神天日鷲命
住所

参考

下記を参考にさせていただきました。

抜粋

『千葉市南部の歴史』抜粋

大鳥神社(生実町一九二六番地)

字峠ノ台の七廻り塚古墳上にあり、祭神は天日鷲命で、もと鷲宮(わしのみや)と称していた。文政二年(一八一九)四月吉日、願主の篠崎平七が鷲宮大明神の石塔を造立している。当祭神からみるとこの古墳は麻績連の墓であろうと推定する。明治四三年二月一日付で御霊社に合祀。

Webサイト

書籍

  • 『千葉市風土記 : 郷土史読本』
  • 『千葉市史 第1巻』千葉市史編纂委員会 編 1974年
  • 『千葉市南部の歴史』宍倉健吉 原著, 千葉市史編纂委員会 編 1986年
  • 『千葉東南部ニュータウン 4 (生浜古墳群)』千葉県文化財センター 編 1977年
  • 『千葉市の民俗芸能』千葉市教育委員会 編 1981年
  • 『千葉市風土記 : 郷土史読本』千葉日報社編集局 編 1981年
  • 『千葉県の不思議事典』森田保 編 1992年
  • 『千葉市史 史料編 1 (原始古代中世)』千葉市史編纂委員会 編 1976年
  • 『千葉歴史散歩 : 50コース』千葉歴史散歩編集委員会 編 1980年

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