印西市平賀の宗像神社の概要


宗像神社は、応神天皇の治世(270~310年?)に殖産振興を祈った印旛国造 伊都許利命(いつこりのみこと)により創建された、印西市平賀に鎮座する神社です。
「開かれる所」の意より「平賀」の地名ができたと伝えられています。
明治期から終戦期まで村社に列格していました。
祭神
1969年(明治四四年)に八坂神社を合祀、もとの宗像三女神に加え現在は次の祭神を祀っています。
- 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
- 湍津姫命(たぎつひめのみこと)
- 田心姫命(たごりひめのみこと)
- 素盞嗚命(すさのおのみこと)
『千葉県神社名鑑』に、下記の境内社が鎮座しているとあります。
- 金刀比羅神社
- 三峯神社
- 疱瘡神社
- 天満宮
- 五社神社
麻賀多神社 同様、伊都許利命(いつこりのみこと)の創建
当社 平賀の宗像神社は、270~310年(応神天皇の治世)に印旛国造(いんばのくにのみやつこ)伊都許利命(いつこりのみこと)が印旛沼の治水と殖産振興を祈り宗像三神を奉祀したことに始まります。
一方、命は印旛沼対岸にも五穀豊穣を願って、現在の麻賀多神社 奥津宮となる社を創建しました。印旛の西と東の対岸に、現代に繋がる二つの社を創建したわけです。
印旛地域で二番目に古い宗像神社か?
当社から北西1.1kmの山田集落にも宗像神社(印西市山田)が鎮座しており、こちらは111年に倭武命(やまとたけるのみこと)が筑紫の宗像神社を奉斎したのが始まりとされています。
伊都許利命がこの地に赴任した時にはすでに山田宗像神社(の前身となる社)で、宗像三女神が祀られていたことになります。
現在分かっている中で、平賀の宗像神社は印旛地域で二番目に古い宗像神社になりそうです。
平賀地区の遺跡数と伊都許利命
印西市と同市平賀地区の「各時代の遺跡数」と「遺跡総数に対する”各時代の遺跡数”の割合(%)」を調べてみました。
どちらも古墳時代の数値が相対的に高くなっており、印西市全体では58.8%、成田市・酒々井市・佐倉市も同様の数値となっています(data not shown)。一方、平賀地区の数値は95.6%と、これらに比べ顕著に大きな数字となっています。
単純に結論は出せませんが、古墳時代初期の伊都許利命による開拓(270~310年)と平賀地区の遺跡数の間に、正の相関があることが示唆されそうです。
印西市 | 平賀地区 | |||
---|---|---|---|---|
時代 | 遺跡数 (数) | 遺跡数割合 (%) | 遺跡数 (数) | 遺跡数割合 (%) |
旧石器 | 58 | 6.9 | 7 | 9.9 |
縄文 | 297 | 35 | 10 | 14 |
弥生(前10C頃~3C中) | 91 | 10.8 | 6 | 8.5 |
古墳(3C中~7C頃) | 480 | 56.8 | 70 | 98.6 |
奈良 | 190 | 22.5 | 18 | 25.4 |
平安 | 227 | 28.9 | 18 | 25.4 |
総数 | 845 | – | 71 | – |
※一つの遺跡に複数の時代の遺構があるケースがあるため、各年代の遺跡数の和は、総数と異なります。
宗像十三社の一社
宗像神社とは?
「宗像神社」は、交通安全を司る宗像三女神を祀る神社で、総本社は福岡県宗像市田島に鎮座しています。
印旛沼北には、「全国的にも類を見ない(書籍『日本の神々』)」と言われるほど多数の宗像神社が密集しています。現在、各集落ごとに鎮守の社として合計13社が鎮座しています。
印旛の宗像・麻賀多・鳥見神社
宗像・麻賀多・鳥見神社は、お互いのテリトリーを侵すことなく「住み分け」するかのように鎮座しています。
- 紺色:麻賀多神社(麻賀多十八社)
- 水色:麻賀多神社(十八社以外)
- 黄色:宗像神社
- 赤色:鳥見神社
宗像十三社一覧
- 清戸宗像神社
次の地図は、海面を現在より5m上昇させたシミュレーションマップに(参考:国土地理院地図)、宗像13社の位置をプロットしたものです。往古の人々の気持ちに近付けるでしょうか。

写真図鑑
拝殿






本殿
本殿は、それぞれ天慶・治承・天正・慶安・文久(1861~1864年)各年間に建替えられました。







境内社
『千葉県神社名鑑』に、金刀比羅神社、三峯神社、疱瘡神社、天満宮、五社神社が鎮座しているとあります。










鳥居








参拝順路










詳細情報
社号 | 宗像神社 |
ご祭神 | 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、素盞嗚命(すさのおのみこと) |
境内社 | |
由緒・歴史 | |
神紋 | |
本殿の向き | |
住所 | 印西市平賀1 |
その他 |
参考
下記を参考にさせていただきました。
抜粋
宗像神社 旧村社
祭神
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)湍津姫命(たぎつひめのみこと)田心姫命(たごりひめのみこと)素盞嗚命(すさのおのみこと)
境内神社
金刀比羅神社・三峯神社・疱瘡神社・天満宮・五社神社
由緒沿革
応神天皇の御代、印旛国造伊都許利命が、印旛沼の治水と殖産振興を計って当地に宗像三神を祭った。「開かれる所」の意より平賀の地名が出来たと伝えられる。
天平年中、別当神宮寺盤若院を社側に建立、明治維新に廃寺となる。旧号宗像大明神、明治二年宗像神社に改称される。天慶・治承・天正・慶安・文久各年間にそれぞれ本殿建替え。明治四四年に八坂神社を合祀し現在に至る。
(八) 村社宗像神社
平賀村字宮前にあり(中略)境内四社を祭る即
一、琴平神社 大物主命を祭る(後略)
二、三峰神社 伊弉諾命伊弉冉命を祭る(後略)
三、疱瘡神社 稲脊脛命を祭る(後略)
四、五社神社 大日霊貴命埴安姫命大己貴命少彦名命倉稲魂命を祭る(後略)
式外なり祭神を、田心姫命湍津姫命市杵島姫命とす人皇第十五代応神天皇の十二年詔して印旛の地に印旛国造伊都許利命を置く先つ印東を鎮め公津の地に居す公津は神津也命印西の地に渡るや必鳥居河岸より当地字公津の川岸に上陸す於是まづ平賀地は開くの義にて印西の地先この地より發かんとの旨にて後世に遺して村名となれりこの地や略四面湖水に望み北端の一角僅に一地峡により山田邑に接続す年々水難を被むる夥しここに南端に水神水波女神を祭りて土民を安堵せしむ命自ら治水の功を績むここ宗像神社を鎮めさせ給ふ命の功績と共に後世に伝ふ是れ往古より平賀の二宮」伝ふる所謂なり土人代々命の息瀬におじ畏み違う心なきものありて二社に仕え奉る自然族姓となりて二宮と云ふこれ偶然にあらざるなりこの地發くやまづ麻と穀とをうゑ耕作の進歩を計るここに麻を数多造るの人を生ず麻は口に宇牟ものにて多は古語に澤に訓ず宇澤の号これより出づ穀を作るの一族後世亦姓となる米野豊田の類之これなり命又居家を定め天津日嗣応神天皇を祭り大伯父神八井耳神を以て鎮祭の礼を行わしむ今日にのこれる笠井の一族は神八井耳神の後裔にして笠井は神八井の略言のみ世俗に平賀山田の地は、粟または氾海と称すこれ阿波忌部に因みあるによる古来一村挙て齎食す神孫の遺風今日に確立す可嘉也とあり[古老口碑宗像神社由緒上世紀]
現代語訳
(この神社は)延喜式には記載がないが、祭神は「田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命(三女神)」である。
第十五代・応神天皇の御代、12年の詔(みことのり)によって、印旛の地に「印旛国造」として伊都許利命(いつこりのみこと)が赴任された。
まず伊都許利命は、印東(現在の印旛郡東部)を鎮め、公津(こうづ)の地に居住した。この「公津」という地名は、「神津(かみつ)」=神の地、を意味する。
彼が印西の地に渡るときには、必ず鳥居河岸(現・成田市内の地点と推定される)から船で渡り、当地字公津の川岸に上陸した。
こうして、まず平賀の地を開拓するという意義があり、印西地方の開発は、この地・公津から始まったという伝承がある。これが後に村名として残された。
この地は、ほぼ四方を湖水に囲まれ、北端の一角だけが**細い陸地(地峡)**によって山田村とつながっていた。
年々、水害が多く、被害が甚だしかった。
そこで、南のはずれに水神「水波女神(みずはのめのかみ)」を祀って、住民の不安を鎮めた。
伊都許利命自らが治水に尽力し、功績をあげた。ここに宗像神社を創建し、その功績とともに、後世に語り伝えられている。
これが、いわゆる「平賀の二宮」と呼ばれる由来である。
土地の人々は代々、命(伊都許利命)の子孫とされ、畏れ敬い、心から奉仕した。
その信仰心の深さゆえ、自然と家の姓(苗字)も「二宮」となった。これは偶然ではない。
この地の開拓にあたって、まず麻と穀物が植えられ、耕作が進められた。
やがて、多くの人々が麻を作ることを生業とするようになった。
「麻」は古くは「宇牟(うむ)」と呼ばれ、「多」は古語で「沢(さわ)」を意味することから、「宇澤(うざわ)」という名前が生まれた。
また、米や穀物を作る一族も興り、「米野」「豊田」などの姓も後に生まれた。
伊都許利命はさらに居住地を定め、天皇家の天津日嗣(天皇)である応神天皇を祀り、また**大伯父である神八井耳命(かんやいみみのみこと)**をもって鎮祭の祭礼を行わせた。
この神八井耳命の子孫が、今日に残る「笠井氏」であり、「笠井」という名は、神八井耳命の略称から来ている。
また、平賀・山田の地は、古くは「粟」あるいは「氾海(あぶみ)」と呼ばれたが、これは阿波忌部(あわのいんべ)氏の影響によるものである。
古くから、村人全員が一丸となって神に供える食をつくる習わしがあり、神の子孫の伝統が今日まで残されている。
これは実に尊いことだと記されている。
(出典:古老の言い伝え、および宗像神社の由緒に関する上古の記録)
書籍
- 『千葉県神社名鑑』千葉県神社名鑑刊行委員会 編 1987年
- 『千葉県印旛郡誌』印旛郡 編 1913年